第19話「そう、私は知覚者だ」
日曜日の午後、柊は一人で街に出た。
白瀬と朝霧が局舎から戻った翌日だった。二人の様子を見て、今日は一人で出ようと思った。気分転換のつもりだった。
商店街を歩いた。特に目的はなかった。ウィンドウショッピングをして、カフェに入って、本を一冊買った。分厚い本だった。
帰り道、路地に差し掛かったとき、柊の能力が反応した。
柊の知覚系能力の基本は、相手の綻びを読むことだ。人間の動き、言葉、存在そのものには必ず微かな揺らぎがある。嘘をついているとき、攻撃する直前、隠し事をしているとき。その揺らぎが柊の目には「光」として見える。棘、と柊は心の中でそれを呼んでいた。父親から教わった呼び方だった。
今、建物の陰にその光があった。
一つだけ、綻びが見えた。意図的に隠していない。むしろ見せている気配だった。綻びの色が薄かった。敵意がある人間の綻びとは違う。でも目的がある人間の綻びだった。
柊は足を止めた。
「気づいた? 早いじゃん」
声が上から降ってきた。
建物の外壁に、男が張り付いていた。二十代前半くらいだった。軽装で、ニヤニヤしていた。髪が明るい色で、全体的に軽い印象だった。
「誰?」と柊は言った。
「俺? ただのバイトだよ、バイト」男は壁から飛び降りた。着地が軽かった。「お嬢さんのお父さん、二宮隆介さんに頼まれてさ。娘の護衛、みたいな」
棘が反応した。
「父に頼まれた」という言葉の部分だけ、綻びの色が変わった。嘘をついているときの色だった。言葉と存在が一致していないときに出る揺らぎだった。
「嘘だ」と柊は言った。
「なんで」
「今、嘘をついたときの綻びが出た」
男は少し笑った。
「賢いじゃん。じゃあ正直に言う」男は柊を見た。「管理局の外部委託。あんたの情報が欲しい。父親経由で17番に何か知らないかって」
「知らない」
「そう言うと思った」男は肩をすくめた。「でも一応仕事だからさ。少し付き合ってよ」
「断る」
「そっか」男の目が変わった。笑顔のまま、目だけが真剣になった。「じゃあ無理やり聞くしかないね」
男が動いた。
速かった。速度強化系だった。柊が反応する前に間合いを詰めていた。腕を掴もうとした。
柊は咄嗟に後ろに跳んだ。路地の壁に背中が当たった。
「おっ、避けた。でも」男が再び踏み込んだ。「速度の差がありすぎじゃない?」
柊は棘の精度を上げた。意識して深く発動させた。
男の体に綻びが光った。右の踵だった。踏み込む直前、右の踵が地面を蹴る瞬間だけ、一瞬だけ綻びが強く光る。そこが次の一歩の起点だった。次にどこに来るか、わかった。
でも見えても対応できなかった。
速すぎた。綻びが光ってから体が動くまでの時間が、男の速度に追いついていない。棘は弱点を教えてくれる。でも棘は体を速くしてくれない。
二度目の掴みをギリギリで躱したが、三度目で腕を掴まれた。
「ほら」と男は言った。ニヤニヤしていた。「知覚系って、見えるだけじゃ意味ないんだよね。体がついてこないと」
柊は掴まれた腕を引いた。抜けなかった。
「素直にしてくれたら痛くしないよ。俺も仕事だし」
柊は状況を整理した。
棘で弱点は見えている。でも速度の差が大きすぎて体が追いつかない。正面からでは絶対に無理だ。
ならば正面から戦わなければいい。
柊はもう一つの能力を発動させた。
静かになった。
凪、と柊は呼んでいた。意識を切り替えると、周囲の全てが水面のように静止して見える。自分を中心にした範囲の中で、全ての動きが同時に把握できる状態になる。人の位置、物の配置、動きの軌道。一枚の絵のように全部が見えた。
ただし長くは続かない。数秒間だけだ。
男の体が見えた。右手で柊の腕を掴んでいる。体重は左足に乗っている。次に動くとすれば右足から踏み込む。路地の幅は三メートル弱。頭上に非常階段がある。右手に自動販売機。左手に古い電柱。足元、路地の端に金属製の溝の蓋。古い。体重をかければ歪む。
全部が同時に見えた。
棘で読んだ男の綻びと、凪で把握した路地の構造が、柊の中で一つに繋がった。
勝てる状況が、一本の線として見えた。
柊は体を低くした。
「あ? どこ行くの」
柊は体を回転させながら手首の角度を変えた。棘が示した綻び、男の握力が一瞬だけ緩む角度だった。その瞬間に引き抜いた。
「おっ、やるじゃん」男が再び踏み込んだ。「でも何回やっても同じだよ」
柊は走った。路地の奥に向かって。
「逃げるの? つまんな」
男が追ってきた。すぐに追いつかれる。
でも柊には目的があった。逃げているのではなかった。
凪で把握していた溝の蓋に向かって走った。棘で男の踏み込みの起点を読んでいた。右踵から踏む。その一歩を、あの蓋の上に誘導できれば。
柊は蓋の手前で止まった。
男が追いついてきた。勢いがついていた。
柊は一歩横に動いた。棘が示していた右踵の綻び、踏み込みの起点を正確に計算した位置だった。男が柊のいた場所を、右踵から踏んだ。溝の蓋の上を。
蓋が歪んで片側が持ち上がった。男の足が引っかかった。一瞬だけ体勢が崩れた。
「うわっ」
柊はその一瞬を使った。
凪で計算していた。男の平衡感覚が戻るまで〇・八秒。その間に男の背後に回った。右手に持っていた本を男の後頭部に叩きつけた。
分厚い本だった。
鈍い音がした。
「いっ……」
柊は棘で男の重心を読んだ。どこを蹴れば転倒するか、一点だけ光っていた。そこを蹴った。
男が前のめりに倒れた。
柊はすぐに距離を取った。路地の出口に向かって走った。
路地を出たところで柊は立ち止まった。
息が上がっていた。膝が少し震えていた。
振り返った。男が路地の奥で立ち上がっていた。後頭部を押さえていた。
「いっっ……本で殴るとか、女子高生がやることじゃないでしょ」
「勝ったからいい」と柊は言った。
「勝ったって言い張るの? 一発殴って逃げただけじゃん」
「目的を達成した方が勝ちでしょ」
男は少し黙った。それから笑った。
「まあ確かに」男は後頭部から手を離した。「情報は取れなかったし、取り押さえもできなかった。俺の負けか」
「そうだね」
「強いじゃん、あんた」男はニヤニヤした。「本で殴るって発想、なかったわ」
「ありがとう」
「褒めてないけど」
柊は男を見た。
「一つだけ聞いていい」
「なに」
「誰に頼まれたの。本当のことを」
男は少し考えた。棘が反応しなかった。本当のことを言おうとしている綻びの色だった。
「桐野って人。管理局の人間」
「ありがとう」
「いや、情報渡しちゃったじゃん俺」男は頭を掻いた。「バイト失格だな」
「次からは別の仕事にした方がいいよ」と柊は言った。
「そうする」
帰り道、柊は買った本を見た。
表紙が少し凹んでいた。申し訳なかったと思った。でも仕方がなかった。
棘と凪。この二つだけで今日は戦った。棘は弱点を教えてくれるが体を速くしてくれない。凪は状況を全部見せてくれるが長くは続かない。どちらも一つだけでは足りなかった。でも二つ合わさったとき、勝てる一本の線が見えた。
自分の能力の使い方を、少しだけ理解した気がした。
父親に話したら怒られるか褒められるか、どちらかわからなかった。たぶん両方だと思った。
寮に戻ると、廊下に17がいた。
自販機の前に立っていた。柊を見た。
「本が凹んでいる」と17は言った。
「ちょっとあって」
「怪我は」
「ない」
17は柊を見た。解析の能力が動いたのか、目が微かに細くなった。
「本当にないか」
「本当にない」柊は17を見た。「なんでわかるの、毎回」
「怪我があれば動き方が変わる。変わっていない」
柊は少し笑った。
「外で能力者に絡まれた」と柊は言った。「桐野って人の外部委託」
「知っていた」と17は言った。
「また知ってたの」
「今日お前が出かけたとき、追跡の能力で気配を確認していた。気配が止まった路地があった」
「心配してたってこと?」
「確認していただけだ」
「同じじゃないの」
17は答えなかった。自販機のボタンを押した。缶が落ちてきた。
「勝ったか」と17は言った。
「勝った」
「そうか」
「棘と凪を使った」と柊は言った。「二つ合わせたら、一本の線が見えた」
17は缶を手に取った。柊を見た。
「お前の能力は」と17は言った。少し間を置いた。「戦うためのものではないが、戦える」
「褒めてる?」
「事実を言った」
柊は笑った。
「ありがとう」と柊は言った。「それだけで十分」
17は答えなかった。でも缶をもう一本買って、柊に渡した。
柊は受け取った。
廊下に二人分の足音が響いた。




