第16話「新たな初まり」
月曜日の朝、学園の空気が変わった。
具体的に何かが変わったわけではない。授業も日常も同じだった。でも水面下で何かが動いている気配が、じわじわと濃くなっていた。桐島と水無瀬が来て二週間が経った。管理局の目が学園の内側に定着した、ということだ。
17は教室の窓際に座って、いつも通り外を見ていた。
二時間目、桐島の数学の授業だった。
板書しながら問題を解説する。生徒が順番に答えを言う。いつもの流れだった。桐島の視線が授業中に一度だけ17に向いた。17は黒板を見ていた。
授業の終わり際、桐島が言った。
「放課後、補講に残れる人は残ってください。先週の範囲で理解が浅いところを補足します」
何人かが頷いた。柊は桐島を見た。補講。自然な口実だった。でも本当の目的は補講ではない気がした。
昼休み、屋上に上がると17がいた。
「補講」と柊は言った。隣に並んで、空を見た。
「聞いた」と17は言った。
「行く?」
「行かない」
「桐島先生、何かするつもりだと思う?」
「情報を集める口実だ。残った生徒の能力と気配をじっくり読む時間を作りたい」
「私も読まれる?」
「お前の父親は管理局の上位能力者だ。お前自身も知覚系が高い。当然マークされている」
柊は少し考えた。
「行った方がいい? 撒き餌みたいな感じで」
17は柊を横目で見た。
「行くな」
「なんで」
「面倒なことになる」
「私のことを心配してる?」
「面倒なことを増やしたくない」
柊は少し笑った。それ、心配してるってことじゃないの、と言おうとして、やめた。今日は追及しない気分だった。
「わかった。行かない」と柊は言った。
放課後、補講に残ったのは六人だった。
白瀬が残っていた。朝霧も残っていた。柊は残らなかった。17は最初から教室にいなかった。
桐島は六人に問題を解かせながら、自然な動作で情報収集系の能力を使った。一人ずつ、丁寧に。白瀬は気づいていた。朝霧も気づいていた。二人とも気づいていないふりをして、問題を解いていた。
三十分後、補講が終わった。
「よく残ってくれました。また来週も」と桐島は言った。
生徒が出て行った。白瀬と朝霧が最後に廊下に出た。
「どのくらい読まれた」と白瀬は言った。声を落としていた。
「表面だけ」と朝霧は言った。「深くは入れさせなかった」
「俺も同じ。でも桐島は満足そうだった」
「表面だけ渡せば十分だと判断したんだろう」朝霧は少し間を置いた。「17がいなかったことを、あの人は気にしていた」
「顔に出てた?」
「目が一度だけ扉の方を向いた」
白瀬は少し笑った。
「やっぱり17が目当てか」
その夜、事態が動いた。
午後八時過ぎ、学園の北側の倉庫街に三人の人影が現れた。管理局の外部委託、金で動く能力者だった。正規の局員ではない。でも局員より動きが自由な分、使いやすい。今日の目的は一つ、17の能力を実戦で確認すること。戦闘を仕掛けて、反応を記録する。
三人は倉庫の陰に潜んだ。
同じ時刻、白瀬は寮の自室で報告書の下書きを書いていた。
書いては消して、また書いた。上に何を伝えて何を伏せるか。その線引きが最近難しくなっていた。
窓の外を何気なく見た。
北側の倉庫街の方向に、気配があった。白瀬の能力は情報収集系ではないが、訓練された直感がある。何かが起きようとしている。
白瀬は上着を手に取った。
倉庫街の入口に着いたとき、既に始まっていた。
暗い倉庫街の奥に、17が立っていた。三人の男が囲んでいた。白瀬は倉庫の陰に身を潜めた。息を殺した。
三人が同時に動いた。速度系が正面から、拘束系が右から、衝撃系が左から。連携した動きだった。それぞれの能力が組み合わさって穴がない。速度系が目を引きつけている間に拘束系が動き、動きを封じてから衝撃系が仕留める。悪くない戦術だった。
17は動かなかった。
速度系が間合いに入った瞬間、一歩だけ横に動いた。拳が空を切った。勢いが余った男の首筋に手刀を当てた。音もなく倒れた。残り二人が止まらなかった。拘束系の能力が発動した。見えない網が17の周囲に展開された。衝撃系がその後ろから踏み込んできた。
白瀬は息を呑んだ。
網の中に入ったまま、17は動かなかった。拘束系の男が確信した顔をした。次の瞬間、衝撃系が拳を振り上げた。
17の唇が動いた。
小さかった。ほとんど聞こえなかった。でも白瀬の耳は確かに拾った。
「式系・絔」
次の瞬間、白瀬には何が起きたのか理解できなかった。
二人の男の体が、おかしかった。
拘束系の男の腕が、自分の意志とは無関係に動いた。能力の展開を解除する動作を、自分でしていた。自分でしているのに、その顔は困惑していた。なぜ自分がこうしているのかわからない顔だった。衝撃系の男の体が前に傾いた。振り上げた拳が、自分の顔の方に向いていた。自分でそうしているのに、止められなかった。
まるで糸で動かされているような。
17の右手の指が、微かに動いていた。人差し指と中指と薬指。三本の指が、それぞれ独立して微細に動いていた。まるで見えない糸を操るように。
二人の体が、折り畳まれるように崩れた。音もなく、ゆっくりと地面に伏した。
17が右手を下げた。
三人が地面に伏していた。静かだった。17は三人を一瞥して、踵を返した。
白瀬は倉庫の陰から動けなかった。
式系・絔。
聞こえた。でも何が起きたのか説明できなかった。触れていない。距離があった。なのに二人が自分の意志とは別の動きをして、崩れた。
糸、と白瀬は思った。見えない糸で動かした。人形みたいに。
17が倉庫街を出て行った。気配が遠ざかった。
白瀬はしばらくその場に立っていた。
報告書に何を書くか、考えた。
書けない、と思った。書いたら上が動く。あれを見て上が動いたら、止められない。
白瀬は上着のポケットに手を入れた。携帯を握った。握ったまま、出さなかった。
倉庫街に三人が伏していた。月明かりだけが静かに照らしていた。
翌朝、朝霧が白瀬を呼び止めた。
廊下の端だった。
「昨夜、北棟の方に行ったか」と朝霧は言った。
「なんでわかった」と白瀬は言った。
「気配を読んだ。いつもより顔色が悪い」
白瀬は少し笑った。
「見た」と白瀬は言った。声を落とした。「式系・絔って聞こえた。触れずに二人を動かした。人形みたいに」
朝霧は少し間を置いた。
「Formula系とは別の呼称か」
「そうだ。数字じゃない。式系、という別の系統がある」
「報告したか」
「してない」白瀬は朝霧を見た。「できなかった。あれを報告したら上が本格的に動く。それは」
「まずい」と朝霧は言った。
「そうだ」
二人はしばらく黙った。廊下を生徒が通り過ぎた。
「一つだけ聞いていいか」と白瀬は言った。
「何」
「朝霧さんは、怖くないのか。あいつのことが」
朝霧は少し考えた。
「怖い」と朝霧は言った。正直な声だった。「でも」
「でも?」
「怖い相手と、敵対したい相手は、違う」
白瀬は朝霧を見た。それから少し笑った。今日の笑い方は作り物ではなかった。
「朝霧さんってたまに本当にいいこと言うよね」
「そうか」
「そうだよ」
昼休み、柊は屋上に上がった。17がいた。
「来た」と17は言った。「来た」と柊は言った。並んで立った。
しばらく二人で空を見た。雲が少なかった。遠くまで見えた。
「昨日の夜」と柊は言った。
「ああ」
「倉庫街で何かあったって、朝の放送で言ってた。不審者が三人倒れてたって」
「そうか」
「17は関係ある?」
17は空を見たままだった。
「さあ」
「またさあって言う」
「他に言うことがない」
柊は少し笑った。それから真顔に戻った。
「ねえ」と柊は言った。
「何だ」
「昨日、補講行かなくてよかったと思う。行こうとしたら止めてくれたから」
「面倒を増やしたくなかっただけだ」
「うん」と柊は言った。「でもありがとう」
17は答えなかった。
風が吹いた。柊の髪が揺れた。
「なんか最近、ありがとうって言う回数が増えた気がする」と柊は言った。
「そうか」
「17に対して」
「そうか」
「嫌?」
17は少し間を置いた。
「別に」と17は言った。
それだけだった。でも柊には十分だった。
チャイムが鳴った。二人は屋上を後にした。並んで廊下を歩いた。足音が二つ響いた。




