第10話「あの日の翌日」
水曜日の朝、柊はいつもより早く登校した。
昨夜よく眠れなかった。目を閉じるたびにあの空白が浮かんだ。細身の人物がいた場所。何もなくなった床。微かな焦げ跡。
Formula:0。
聞こえた言葉を何度も頭の中で繰り返した。意味はわからない。でも確かに聞こえた。17が否定しても、耳に残っていた。
教室に入ると、17はすでにいた。
いつもの席。いつもの姿勢。窓の外を見ていた。何も変わっていなかった。昨夜廃ビルにいた人間と同一人物だとは、見た目からは何もわからなかった。
柊は自分の席に座った。
しばらく黙っていた。17も何も言わなかった。
朝の光が教室に差し込んできた。
「おはよう」と柊は言った。
17は窓の外を見たまま答えた。
「ああ」
それだけだった。でも柊には十分だった。
一時間目は座学だった。
能力の応用理論。教師が板書しながら淡々と説明する。柊はノートを取りながら、昨夜のことを整理しようとしていた。
大柄な男。速度特化の男。そして細身の人物。
細身の人物が言った言葉が引っかかっていた。
十三年前の清算は、まだ終わっていない。
父親への伝言だった。父親は管理局の上位能力者だ。十三年前に何があったのか、柊は知らない。でも図書室で見た報告書の日付が十三年前だったことを思い出した。
点と点が繋がりそうで、繋がらなかった。
授業が終わった休憩時間、白瀬が柊の席に来た。
「大丈夫? 昨日のこと」
「大丈夫」と柊は言った。
「無理しなくていいよ」白瀬の声は穏やかだった。「怖かったでしょ」
「怖かった」と柊は素直に言った。「でも終わった」
白瀬は少し間を置いた。
「助けてくれた能力者、心当たりある?」
柊は白瀬を見た。白瀬は心配そうな顔をしていた。演技なのか本心なのか、今の柊には判断できなかった。
「ない」と柊は言った。
「そっか」
白瀬は自分の席に戻った。
柊は前を向いた。
昼休み、柊は購買でパンを二つ買った。
いつもは一つだった。自分でも気づかずに二つ手に取っていた。レジで気づいて、そのまま買った。
屋上に上がった。
17がいた。いつもの場所に立っていた。
「来ると思った」と17は言った。
「そう?」
「パンが二つある」
柊は手元を見た。確かに二つある。
「気づいてなかった」と柊は言った。
「そうか」
柊は17の隣に並んだ。一つを17に差し出した。17は少し間を置いてから受け取った。
二人並んで、パンを食べた。
しばらく何も言わなかった。空が青かった。昨日の雨が嘘のような晴れだった。
「昨日のこと、聞いていい?」と柊は言った。
「内容による」
「Formula:0って何?」
17はパンを一口食べた。答えなかった。
「聞こえてたんだけど」
「気のせいだと言った」
「気のせいじゃない」
また沈黙が落ちた。風が吹いて、柊の髪が揺れた。
「教えてくれなくていい」と柊は続けた。「ただ、聞いてみたかっただけ」
17は空を見た。
「いつか」と17は言った。
「いつか?」
「いつか話す。今は無理だ」
柊は17を見た。横顔が逆光になっていた。表情が読み取れなかった。
「わかった」と柊は言った。
それ以上は追わなかった。
二人はまたしばらく黙ってパンを食べた。遠くでチャイムの予鈴が鳴った。
「美味しくなかったか?」と柊は言った。
「普通だった」
「そう」
「買ってきたのか」
「たまたま二つあった」
17は少しだけ間を置いた。
「そうか」
それだけだった。でも柊は、その「そうか」が昨日までと少しだけ違う気がした。気のせいかもしれなかった。でも気のせいではない気もした。
午後の授業は実技だった。
今日は個人の能力制御ではなく、二人一組のサポート訓練だった。一人が攻撃し、もう一人がフォローに入る形式。
組み合わせが発表された。
柊と17だった。
クラスがざわめいた。昨日の事件のせいか、柊への視線が多かった。心配しているものも、好奇心で見ているものも混ざっていた。
17は何も言わずに柊の横に立った。
「大丈夫か」と小さく言った。
「大丈夫」と柊は返した。
遠藤が指示を出した。柊が前衛で能力を使い、17が後衛でサポートに入る。
柊は構えた。知覚系の能力を使って、ターゲットの弱点を読み取る。それを後衛に伝えて、的確に攻撃してもらう形だ。
柊が能力を発動した。ターゲットの構造が見えた。弱点が三箇所。座標を声に出した。
17が動いた。
正確だった。柊が伝えた三箇所に、寸分の狂いもなく干渉した。ターゲットが内側から崩れた。
遠藤が評価を入力しながら首をかしげた。
「17、お前の能力は本当に何だ」
「不明です」
「不明なのに制度が高すぎる」
「そうですか」
遠藤は何か言おうとして、またやめた。採点欄に「特記事項あり」と入力した。先週と同じ文字だった。
柊は17を横目で見た。
「上手かった」と小さく言った。
「お前の座標が正確だった」と17は返した。
褒め合っているわけではなかった。事実を言い合っただけだった。でもそれが、柊には悪くなかった。
放課後、朝霧が柊を呼び止めた。
廊下の端だった。人が少ない場所を選んでいた。
「昨日のこと」と朝霧は言った。
「うん」
「怪我はない?」
「ない」
朝霧は少し間を置いた。いつもの無表情だったが、何か言いたそうな空気があった。
「聞いてもいい?」と朝霧は言った。
「内容による」と柊は言った。
朝霧は少しだけ目を細めた。
「助けてくれた能力者のこと、覚えているか」
「覚えていない」と柊は言った。「気づいたら終わってた」
「そうか」
「朝霧さんは何か知ってるの?」
朝霧は答えなかった。
「管理局から来たんでしょ」と柊は続けた。静かな声で、責めるでもなく言った。「昨日の三人と、何か関係がある?」
朝霧の表情が少し動いた。驚きではなく、何かを測るような動きだった。
「なぜそう思う」
「推測。外れてる?」
朝霧はしばらく柊を見た。
「外れていない」と朝霧は言った。
柊は少し驚いた。否定すると思っていた。
「教えてくれるの?」
「今は無理だ」
17と同じ言葉だった。柊は少し可笑しくなった。笑いはしなかったが。
「わかった」と柊は言った。「いつか話してくれればいい」
朝霧は頷いた。それから歩き去った。
廊下に柊だけが残った。
今は無理だ、という言葉が二人から返ってきた。でも二人とも、いつかは話す余地を残していた。
それだけで、今日は十分だと柊は思った。
夜、17は寮の自室で天井を見ていた。
電気をつけていなかった。月明かりが窓から入っていた。
パンのことを考えた。
柊が二つ買ってきた。気づいていなかったと言っていた。嘘ではないだろう。でも無意識に二つ手に取った、ということだ。
17には、それがどういう意味なのかわからなかった。
わからないが、悪くはなかった。
その感覚が、少しだけ奇妙だった。
悪くない、と思ったのは、いつ以来だろう。
17は目を閉じた。答えは出なかった。出ない問いだとわかっていた。
月明かりが部屋を白く照らしていた。




