蠢く緑の腐敗
舞台は今から遠い未来の世界での話です。
人類が永遠の命を手に入れた世界とその矛盾を描く全十章からなる物語です。
1. 境界線の崩壊
排気ダクトの奥底、湿り気を帯びた暗闇を這い進むエレンの指先に、これまで感じたことのない感触が伝わっていた。
それは、アトラのあらゆる場所から徹底的に排除されていたもの――「汚れ」だった。
指にこびりつく煤、鉄錆の臭い、そして得体の知れない有機物の粘り。アトラの住人であれば、不快感のあまりパニックを起こし、即座に衛生ドローンの出動を要請するであろう状況だ。しかし、エレンの胸の内にあるのは、奇妙な高揚感だった。
「……ここが、出口か」
錆びついたハッチを押し開けた瞬間、エレンの全身を凄まじい熱気が襲った。
アトラの完璧な空調システムによって摂氏二十二度に保たれていた世界は、そこにはなかった。重苦しく、肺にまとわりつくような湿気。そして、鼻腔を刺すような、強烈な腐敗臭と芳醇な花の香りが混ざり合った、圧倒的な「生の匂い」が彼を包み込んだ。
エレンは眩暈を覚えながら、外へと這い出した。
そこは、彼がアーカイブの展望デッキから見ていた景色とは、決定的に違っていた。
2. 緑の狂乱
ドームの防壁のすぐ外側には、もはや「森」と呼べるような情緒的なものは存在しなかった。
そこに広がっていたのは、ナノマシンの暴走によって「枯れる」ことを忘れた植物たちの、狂気じみた生存競争の跡だった。
巨木たちは互いの幹を締め上げ、天を覆い隠すほどに生い茂っている。葉の一枚一枚が、アトラの街路樹の数倍の厚みを持ち、太陽の光を一滴も漏らすまいとひしめき合っている。
足元を見れば、シダ植物のようなシダのような巨大な草が、ジメジメとした大地を這い回り、少しでも空いた隙間があれば、そこに根を下ろそうと蠢いている。
「……これが、死のない野生」
エレンは息を呑んだ。
詩に書かれていた通りだった。
『草や木は天を覆い隠すほど生い茂り、沢山の生き物たちがそのジメジメした大地を蠢くであろう。』
死という間引きの手が入らなくなった世界では、生命は調和を捨て、ただひたすらに自己増殖を繰り返す「肉の塊」へと成り下がっていた。
エレンが足を一歩踏み出すたびに、足元の苔のような生物が、不気味な音を立てて波打つ。
アトラでは、草木は観賞用として最適化されていた。しかしここでは、植物さえもが他者の領域を奪い合い、日光という資源を巡って、言葉なき悲鳴を上げながら押し合いへし合いをしているのだ。
3. 朽ちない死骸
エレンは、巨大な木の根の影に、何かを見つけた。
それは、かつて「鹿」と呼ばれていた動物の成れの果てだった。
その生き物は、横たわったまま動いてはいなかった。しかし、それは死んでいるのではなかった。
身体の半分は地中の菌類に侵食され、腹部からは奇妙なキノコのような植物が生い茂っている。にもかかわらず、その鹿の瞳だけは、濁った光を湛えて微かに動いていた。
ナノマシンが、その個体の生命活動を強制的に維持し続けているのだ。
臓器が腐り果て、骨が露出しても、細胞の一つ一つが「死」を受け入れることを拒絶している。
それは、救済のない永遠の拷問だった。
かつての宗教家たちが「奈落」と呼んだ地獄は、火に焼かれる場所ではなく、このように「終わりたくても終われない」停滞の中にこそあったのではないか。
エレンは激しい吐き気を催し、その場を離れた。
アトラの住人は、死を「他人事」にすることで平和を手に入れた。
だが、このドームの外に広がる世界では、死は「剥き出しの呪い」として、あらゆる生命にこびりついている。
そこには何の秩序もなく、酷く荒れた様。
それぞれが何処へ行っても所狭しとひしめき合って、今よりも遥かに激しく陣地を奪い合っている。
「君、何をしているの」
背後からかけられた声に、エレンは心臓が止まるかと思った。
振り返ると、そこには、あのアーカイブで出会った少女が立っていた。
彼女は、アトラの清潔な光の下で見た時よりも、ずっとこの狂った緑の世界に馴染んでいた。
4. 徒花の村
「……君を、追いかけてきたんだ」
エレンは掠れた声で答えた。
少女は呆れたように肩をすくめた。
「バカね。アトラの『お人形』が、こんな場所で生きていけるわけないのに。ここは、あなたたちが捨てたゴミ溜めよ」
「ゴミ溜めじゃない。ここには、僕たちが失った『時間』がある」
エレンの言葉に、少女の瞳がわずかに揺れた。
彼女は「リナ」と名乗った。彼女が住むのは、ドームの監視を逃れた、古びた地下シェルターを利用した集落だった。
リナに連れられて辿り着いたその場所は、アトラとは対極にある「生の吹き溜まり」だった。
そこには、自分たちの寿命をありのままに受け入れようとする「徒花の一族」の他にも、アトラから追放された者や、永遠の生に耐えかねて逃げ出した者たちがひしめき合っていた。
シェルターの中は、薄暗く、常に誰かの咳き込む声や、怒鳴り声が響いている。
清潔な衣服などどこにもない。誰もが泥と油にまみれ、限られた食料と水を巡って、今にも争いが起きそうな殺伐とした空気が漂っていた。
「見なさい。これが、あなたが求めた『生』の正体よ」
リナが冷たく言い放つ。
「ここでは、誰もが死を恐れている。アトラみたいに、死を忘れることなんてできない。明日の食べ物があるか、隣の男に殺されないか、そればかり考えて、みんな心が荒地のように殺伐としているわ」
エレンは、ひしめき合う人々を観察した。
確かに、そこにはアトラのような優雅な静寂はなかった。
下の者が上の者の地位を狙い、一度地位を失えば奈落の外に落ちていく恐怖に怯えている。
しかし、同時にエレンは感じていた。
ここにいる人々の瞳には、アトラの住人にはない「輝き」があることを。
それは、いつか消えることを知っている命が放つ、最後の、そして最も純粋な抗いの光だった。
5. 禁忌の伝承者
リナに導かれ、エレンは集落の最深部、ひび割れたコンクリートに囲まれた小さな個室へと入った。そこには、集落の長であり、最古の記憶保持者であるという老婆、サヤが待っていた。
サヤの肌は、まるで数千年前の古文書のように深く刻まれたシワに覆われていた。アトラでは決して見ることのない、文字通り「時間を積み重ねた」顔。彼女は、エレンの着ている清潔すぎるアトラの衣服を、濁った瞳で一瞥した。
「アトラの司書か……。あそこには、まだあの『詩』が残っていたのだな」
サヤの声は、擦れた砂同士が触れ合うような音だった。彼女の背後には、少女リナが奪い返してきた、あの古い宗教の本が置かれている。
「教えてください」エレンは縋るように言った。「この本の最後に書かれていることは事実なのですか?『「 昔は良かった、あの限りある時代に戻りたい」と、誰もが懐かしむ時が来る……。』今、世界はそうなっているように見えます」
サヤは、震える手で本を開いた。
「人間は、死を他人事にする術を見つけた時に、魂を半分捨てた。憐れみ、愛情を捧ぐ術を捨てた時に、残りの半分を捨てた。そして正面から向き合う勇気を失った時……。人は、自分が何者であるかさえ忘れてしまったのだ」
彼女によれば、「徒花の一族」とは、ナノマシンの恩恵を拒絶した者たちの末裔ではない。むしろ、初期のナノマシンが「死を止める」という命令を忠実に守りすぎた結果、永遠の苦痛に囚われた初期被験者たちの、わずかな希望を繋ぐために組織された集団だった。
「私たちは、かつての父――『死』という秩序の神を殺した報いを受けている。だがな、司書。この詩が生まれた場所には、まだ神の抜け殻が残っているという。そこには、すべてをそれだけで治めてしまう、純真な役割を持った『最後の種』が眠っているのだ」
サヤが指差したのは、剥き出しの壁に描かれた掠れた地図だった。アトラの記録からは完全に抹消された、北の最果て。かつて凍土と呼ばれた場所に、人類が最後に建設した「死の貯蔵庫」が存在するというのだ。
6. 終わりなき戦火
その時、集落の入り口の方から激しい爆発音が響いた。
「また来たわ……」リナが憎しみを込めて吐き捨てた。
エレンが急いで外に出ると、そこには目を覆いたくなるような惨状が広がっていた。
アトラから「廃棄」されたはずの、あるいは永遠の生を戦いに捧げることを選んだ「不死の傭兵(不死者)」たちが、集落を襲撃していたのだ。
彼らの戦いは、凄惨を極めていた。
不死者たちは、腕を切り落とされ、腹部を貫かれても、ナノマシンが即座に傷口を塞ぎ、戦闘を継続する。痛みはあるはずだが、彼らの精神はすでに崩壊しており、ただ破壊衝動を繰り返すだけの自動機械と化していた。
「あいつらには、もう何の秩序もない。殺しても死なないから、略奪を止める理由がないんだ!」
集落の男が、血まみれになりながら叫ぶ。
詩にある通りだ。『今よりも遥かに激しく陣地を奪い合い、また今よりも遥かに厳しく差別をして。』
死なない彼らにとって、他者の命を奪うことは「相手から時間を奪う」という重みを失っていた。ただ相手を沈黙させ、動かなくするだけの、終わりのない作業。
上の者は下の者を踏みつけ、下の者は上の者を呪いながら、誰一人として安らぎを得ることはない。そこにあるのは、荒地のように殺伐とした心だけだった。
「これを見ろ、司書!」サヤが叫ぶ。「これが死を忘れた世界の果てだ! 秩序なき生は、ただの暴力だ。誰もが、あの父の威厳に満ちた静寂を、喉から手が出るほど欲している。恐怖であってもいい、終わりが欲しいのだ!」
エレンは、崩れゆくシェルターの中で、自分の心臓が激しく脈打つのを感じた。
アトラにいた頃の「規則的な音」ではない。激しい怒りと、恐怖と、そして使命感に突き動かされた、生命の叫び。
「私が行きます」
エレンは、サヤの前に膝をついた。
「北へ。その『最後の種』を探しに。周知の事実を超えて、この星に再び静寂を取り戻すために」
7. 荒野への第一歩
リナは、エレンの瞳をじっと見つめた後、無言で一本の古びたナイフと、数日分の保存食を差し出した。
「北の道は、ここよりもずっと酷い。ナノマシンの霧が立ち込めて、理性さえも溶けていく場所がある。……それでも行くの?」
「行くよ。僕は、自分が子供の頃に見た、あの父の死を……。あの静かな美しさを、もう一度だけ信じてみたいんだ」
エレンは、アトラのアーカイブから持ってきた一冊の本を、大切に懐に入れた。
その背後では、まだ不死者たちの狂乱の叫びが響いている。
だが、エレンの視線はすでに、灰色の雲が垂れ込める北の空へと向けられていた。
そこは、草や木が天を隠し、秩序なき命がひしめき合う混沌の先。
かつて人間が懐かしみ、そして恐れた「終わりの地」。
エレンは集落を背にし、一歩、また一歩と、湿った大地を踏みしめて歩き出した。
足元で蠢く生命の波を感じながら、彼の心には不思議なほどの静寂が広がっていた。
それは、これから直面するであろう、唯一無二の存在――「死」を迎えに行くための、旅人の祈りだった。
8. 精神を削る白光の霧
集落を離れて数日、北への道は、色彩を失った「白の地獄」へと変貌していた。
ナノマシンの密度が異常に高いこの地域では、大気が常に微細な金属粉を含んだ霧のように停滞している。それは吸い込むたびに脳の深部を刺激し、過去の記憶や、ありもしない「永遠の平穏」の幻覚を網膜に焼き付けてくるのだ。
「エレン、立ち止まらないで。霧に呑まれたら、自分が何者だったかさえ忘れてしまうわ」
同行を志願したリナの声が、霧の向こう側で響く。
彼女の体は、ナノマシンの恩恵を受けていない。そのため、この高濃度エリアでは激しい拒絶反応に晒され、絶えず高熱と眩暈に苦しんでいた。それでも彼女の足取りが確かなのは、自らの内に「終わりの秒読み」を刻んでいるからだ。
一方で、エレンの体内のナノマシンは、霧と共鳴し、彼に心地よい誘惑を囁き続けていた。
「もう歩かなくていい。ここに留まれ。苦痛も、死への恐怖も、すべて消してやろう。お前はアトラの司書、永遠のアーカイブの一部だ……」
「……静かにしろ」
エレンは自分のこめかみを強く叩いた。
視界の端に、かつての同僚、テオの幻影が見える。テオは瑞々しい笑顔で、永遠のパーティへ戻ろうと手招きしている。その誘惑に身を任せれば、心は再び「白銀の虚無」へと還り、この殺伐とした荒地を歩く苦しみから解放されるだろう。
だが、エレンは知っていた。その誘惑の正体は、詩に書かれた*「何も考える必要がなければ何も始まらない」*という、魂の死であることを。
9. 腐敗と再生の狂宴
霧がわずかに晴れた時、エレンは信じがたい光景を目にした。
谷底に、数千体もの生き物たちが積み重なっている「肉の山」があった。
そこには、かつての人間、動物、そして正体不明のキメラたちが、文字通りひしめき合って蠢いている。
ナノマシンが生命の定義を書き換えてしまったせいで、彼らは捕食し合い、消化し合いながらも、完全に「死ぬ」ことができない。
一人の男の腕が、別の獣の腹部と癒着し、その上から奇形的な植物の根が血管のように絡みついている。
そこには何の秩序もなく、酷く荒れた様。
「あれを見て。あれが、アトラが作り出した『永遠の楽園』の、もう一つの姿よ」
リナの声は冷たく、そして深い悲しみに満ちていた。
「死というものが初めから無ければ、一体どうなっていたのだろうか?……その答えが、あそこにある。死ぬことができない彼らは、互いの肉体を陣地として奪い合い、永遠に終わらない融合と解体を繰り返している。あそこには、もう『自分』なんていないの」
エレンは、その地獄から目を逸らさなかった。
正面から、向き合う。
かつての宗教が説いた第三の態度。
この悍ましい光景こそが、人間が「死を他人事」にして遠ざけてきた結果なのだ。
死を憐れみ、愛する心を失った人類は、他者の苦痛さえも背景として消費するようになり、最後には自分自身の存在さえも、この肉の塊の一部として埋没させていく。
10. 司書の覚醒
その夜、エレンは激しい熱に浮かされていた。
体内のナノマシンが、外部からの「アポトーシス(死)への渇望」に過剰反応し、全身の細胞が内側から燃え上がるような感覚。
「ハァ、ハァ……。リナ、僕は……」
「しっかりして、エレン。あなたは、あのアトラの住人たちとは違う。自分で選んで、ここに来たんでしょう?」
リナが差し出した汚れた水。それを口にした時、エレンは気づいた。
アトラでの食事は、栄養素を完璧に配合した無味乾燥なゼリーだった。
だが、この泥の混じったような、鉄の味がする水の、なんと「美味しい」ことか。
渇きを知るから、水の尊さを知る。
苦痛を知るから、静寂の価値を知る。
そして、死を予感するからこそ、今、この一瞬の鼓動が、宇宙の何よりもかけがえのないものに感じられるのだ。
「……リナ。僕は、もう迷わない」
エレンは立ち上がり、北の空を見上げた。
そこには、厚い霧の向こう側に、唯一、星が一つだけ輝いていた。
あの星の光さえも、何億年もかけて「終わり」へと向かっている。宇宙そのものが、死という秩序に従って回っているのだ。
「『数百年先には事実となり、いよいよ終末期や末法と云われる時代が現実にやってくる……。』詩の予言は、もう目の前だ。でも、終末期や末法は世界の終わりじゃない。私たちが、本当の『父』を迎えに行くための、夜明けなんだ」
エレンは、リナの手を握った。
彼女の体温は高く、脈拍は速い。いつか止まることが運命づけられた、愛おしい熱。
彼は今、かつての宗教家たちがなぜ「死を愛せ」と説いたのかを、ようやく理解し始めていた。
二人は、再び歩き出した。
蠢く緑の腐敗も、狂気を呼ぶ白光の霧も、もはやエレンの意志を挫くことはできない。
彼の胸にあるのは、自分自身の死を「唯一無二の救い」として、正面から抱きしめるための、静かな、しかし確固たる勇気だった。
※この小説は95%AIで書かれています。
毎週定期的に投稿していきますので、皆さん良かったらご覧ください。




