白銀の虚無
舞台は今から遠い未来の世界での話です。
人類が永遠の命を手に入れた世界とその矛盾を描く全十章からなる物語です。
1. 塵一つない聖域
その部屋には、生命の匂いがなかった。
保存都市・アトラの中央アーカイブ、地下三階にある「特殊文献管理室」。そこは、摂氏二十度、湿度五十パーセントという、有機物が劣化を止めるためだけに設計された、数学的な静寂が支配する空間だった。
エレンは、防塵仕様の白い作業服に身を包み、ナノマシンの微かな駆動音だけを聞きながら、巨大な棚の前に立っていた。彼が手にしているのは、一冊の「本」だ。電子データでもなく、ホログラムでもない。かつて木々を砕き、繊維を織り込み、インクという汚れを焼き付けて作られた、旧時代の記憶の亡骸。
「……死と、宗教」
エレンの指先が、擦り切れた表紙のタイトルをなぞる。
現代において、この文字列は死語に等しい。アトラの市民にとって、「死」とは歴史の教科書に記された旧人類の敗北の記録であり、あるいは修正し忘れた致命的なシステムバグのことを指す冗談に過ぎなかった。
エレンは、ゆっくりとページをめくった。紙が擦れる乾いた音。それは、数千年にわたって「終わること」を忘れたこの都市では、あまりにも異質な響きを持っていた。
2. 鏡の中の住人たち
アーカイブを出て、エレンは都市の中層にある「市民回廊」へと向かった。
そこは、永遠の生を手に入れた者たちが謳歌する、光り輝く遊歩道だ。空を仰げば、気象制御システムによって維持された完璧なコバルトブルーが広がり、雲一つない快晴が数百年間にわたって続いている。
歩道を行き交う人々は、誰もが瑞々しい肌を持ち、理想的なプロポーションを保っていた。
八百歳を超える老婦人は、二十代の娘のようなハリのある声で笑い、五百歳の青年は、彫刻のような筋肉を誇示して歩く。細胞の劣化はナノマシンによって常に修復され、老いや病という概念は、もはや贅沢な空想の中にも存在しなかった。
「エレン! また地下にいたのかい? 顔が青白いよ」
軽やかな声に、エレンは足を止めた。同僚のテオだ。
テオは、最新型の遺伝子調節剤で瞳の色をエメラルドグリーンに変えたばかりらしく、自慢げに目を細めている。
「テオ。君は、自分がいつまでここにいると思う?」
唐突な問いに、テオは一瞬、きょとんとした表情を浮かべた。
「いつまでって……永遠だろう? 壊れたら直せばいいし、飽きたら眠れば(コールドスリープ)いい。不都合なんて何もない。僕たちは、人類が何万年も夢見てきた『完成された世界』に住んでいるんだよ」
テオの笑顔は、磨き上げられた鏡のように完璧だった。
しかし、エレンはその鏡の奥に、何も映っていないような感覚を抱かずにはいられなかった。
初めからすべてが分かっているのだ。明日も、明後年も、数世紀先も。自分の体調が悪くなることもなければ、大切な誰かが不意にいなくなることもない。
この星のすべての宗教の本は、死に対してどう向き合うのかを説いていたという。だが、向き合うべき「死」そのものが消失した今、人々は何を考えて生きればいいのか。
「何も考える必要がなければ、何も始まらない。……そうは思わないか?」
「難しいことを言うね、君は。そんなことより、今夜の『永劫祭』に来るだろう? 始祖たちが数千年の統治を祝う、最高のパーティだよ」
テオは軽く肩を叩いて去っていった。
エレンは、彼を見送りながら、ポケットの中にある古い本の一節を思い出した。
『宗教とは大きく3つの態様に分かれる
1つは死というものを他人事にとらえることであり
2つは死を憐れみそれに愛情を捧ぐことであり
3つは死に正面から向き合うことである』
テオは、間違いなく「他人事」ですらなくなった世代の象徴だった。彼にとって、死は「他人の不幸」ですらない。「存在しない空白」なのだ。
3. 幹のない枝葉
エレンは、アトラの境界線にある展望デッキへと足を向けた。
都市を囲むドームの向こう側には、ナノマシンの制御を離れた「野生」が広がっている。
そこには、異常な生命力で天を覆い隠すほど生い茂った樹木たちが、漆黒の壁のように立ちはだかっていた。かつては美しかったはずの森は、今や枯れることを忘れた葉が何層にも積み重なり、太陽の光さえ地表に届けない「湿った闇」へと変貌している。
「枝葉とする幹がなければ、果実は実らない……」
エレンは呟いた。
都市も、野生も、同じだった。
更新され続けるだけの細胞は、もはや「成長」という目的を失っていた。
死という厳格な終わりがなければ、生という物語には起承転結の「結」が訪れない。結末のない物語は、ただの退屈な文字列の反復に過ぎない。
ふと、エレンは自分の掌を見た。
傷一つない、完璧な手。
かつての宗教家たちは、この掌の筋に運命を読み、限られた時間の中で何をなすべきかを苦悩したという。
だが、すべてが周知の事実であるならば、そこに運命は存在しない。
ただ、そこには始めから虚無が存在するのみである。
「……僕たちは、生きているのか。それとも、ただ保存されているだけなのか」
その疑問は、無菌状態の空気の中に溶け、誰にも届くことなく消えていった。
しかし、エレンの胸の奥では、小さな火種が燻り始めていた。
あの古い本に記された「父の威厳」に似た恐怖。
そして、その恐怖の向こう側にあるはずの、本当の「静寂」への渇望が。
4. 永劫祭の残響
「永劫祭」の夜、アトラの街は人工的な光の洪水に呑まれていた。
空にはホログラムの火花が散り、何世紀も変わらない祝祭の旋律が、地上数千メートルの空中回廊にまで響き渡っている。人々は最新の感覚調整剤で多幸感を増幅させ、終わりのない夜を踊り明かしていた。
エレンはその喧騒から逃れるように、再び地下のアーカイブへと戻った。
白銀の壁が続く通路。そこは、地上の狂乱が嘘のように静まり返っている。エレンにとって、この静寂だけが、唯一自分の輪郭を保てる場所だった。
「……誰だ」
特殊文献管理室の扉の前で、エレンは足を止めた。
バイオメトリクスで守られているはずの重厚な防壁が、わずかに開いている。警報は鳴っていない。システムが感知できないほどの、原始的な手口。
エレンが室内へ踏み込むと、微かな匂いがした。
消毒液とオゾンの香りに支配されたこの場所には、決して存在してはならない匂い。それは、湿った土と、野生の草木、そして――生命が燃焼した後に残る、かすかな「汗」の匂いだった。
書棚の陰に、小さな影がうずくまっていた。
エレンがライトを向けると、その影は跳ねるように立ち上がり、鋭い視線を投げかけてきた。
「動かないで」
鈴を転がすような、しかしひどく枯れた声だった。
そこにいたのは、十四、五歳ほどに見える少女だった。アトラの住人が好む滑らかな絹の服ではなく、野良仕事で汚れたような、厚手の粗末な布を纏っている。
そして何よりエレンを驚かせたのは、彼女の「顔」だった。
彼女の目尻には、小さな、しかし確かな筋が刻まれていた。
笑い、あるいは苦悩したことで刻まれた、時間の足跡。ナノマシンによる修復を受けていない、未完成で、不完全な、剥き出しの肌。
「君は……ドームの外から来たのか?」
少女はエレンの問いには答えず、その胸元に一冊の古い本を抱え込んだ。エレンが先ほどまで読んでいた、あの宗教の本だった。
「それを、どうするつもりだ」
「返すだけよ」
少女は低く言った。「私たちの部族に伝わるはずだった、最後の『幹』を。あなたたちの先祖が、博物館に飾るために奪っていった、私たちの歴史を」
5. 脈打つ「時間」
エレンは彼女との距離を詰めようとしたが、少女が発する異様な熱気に気圧された。
彼女の呼吸は、テオやアトラの住人たちのそれとは明らかに違っていた。
浅く、速く、そして懸命だ。
まるで、酸素という燃料を燃やし尽くし、一分一秒を削り取りながら生きているかのような、切迫したリズム。
「君の目は……」
エレンは思わず呟いた。
「ナノマシンを入れていないのか? なぜ、そんなに……衰えている?」
少女は自嘲気味に口角を上げた。その表情の動きすら、エレンには奇跡のように見えた。
アトラの住人の表情は、常に最適化されている。喜びも悲しみも、計算された筋肉の動きでしかない。だが、彼女の顔には、制御不能な「生の揺らぎ」があった。
「私たちは『徒花』の一族。あなたたちが捨てた『寿命』を、呪いのように守り続けている者たちよ。私たちの時間は、あなたたちのように止まっていない。砂時計の砂が落ちるように、一刻一刻、死に向かって流れているの」
死に向かって流れる時間。
エレンは、言葉を失った。
詩に書かれていた「死を正面から向き合うこと」を、この少女は日常として、その細い肩に背負っているというのか。
「怖くないのか? いつか、自分が動かなくなることが」
「怖い。……でも、だから私は、今ここにいるの」
少女は本を強く抱きしめた。
「終わりがあるから、私たちは歩ける。終わりがあるから、この本に書かれた言葉の一つ一つが、喉を焼くほどに熱い。……あなたには、分からないでしょうね。すべてが周知の事実で、何も失うことがない、この墓場のような街に住むあなたには」
少女は、棚の隙間から見えた排気ダクトへと身を躍らせた。
「待ってくれ!」
エレンの声も虚しく、彼女は影の中に消えた。
残されたのは、彼女が落とした一枚の栞代わりの枯れ葉と、部屋を満たしていた、生命の焦げるような熱い匂いだけだった。
6. 初めての動悸
エレンは、少女が消えた暗闇を見つめ続けた。
自分の胸のあたりに手を当てると、そこには規則的で静かな鼓動があった。
しかし、その鼓動は、少女のそれとは決定的に何かが違っていた。
自分の鼓動は、機械のピストン運動に過ぎない。
だが、彼女の鼓動は、いつか止まることを知っている「祈り」のようだった。
エレンは、床に落ちた枯れ葉を拾い上げた。
茶色く変色し、もろく崩れそうなその葉は、アトラの街路樹が決して見せることのない、完成された「死の美しさ」を湛えていた。
「枝葉とする幹がなければ……」
エレンは、少女が消えた先を見つめながら、詩の続きを口にした。
「……果実は実らない」
彼女という存在そのものが、アトラの空虚な虚無を切り裂く、一筋の光だった。
すべてが分かっていたはずの自分の運命に、初めて「未知」という名の亀裂が入った。
エレンは、自分でも気づかないうちに、走り出していた。
永劫祭の眩い光へ戻るためではなく、あの少女が背負っていた、暗く、厳格で、しかし震えるほどに純粋な「死の影」を追いかけるために。
7. 父の幻影、少年の疑惑
エレンは、アーカイブの奥深く、自分の私室へと戻った。
少女との出会いは、彼の心の奥底に封印されていた、数世紀前の記憶の蓋をこじ開けた。
それは、エレンがまだ幼かった頃の記憶だ。
アトラの住民の幼少期は、完璧な教育プログラムと、感情の最適化によって無菌的に管理されていた。しかし、ある日、エレンは窓の外で、異様な光景を目にした。
自宅の庭園で、彼の「父」が倒れていたのだ。
父の顔は、苦悶に歪み、肌は見る間に色を失い、生気が抜けていく。それは、エレンがそれまで教科書でしか見たことのない「死」という現象の、生々しい発現だった。
しかし、その光景は一瞬で隠蔽された。
数秒と経たないうちに、医療用ドローンが飛来し、倒れた父の体を瞬時にカプセルに収容した。庭園の地面は自動的に洗浄され、父の苦悶の表情を見た者は、感情抑制剤によってその記憶を「不具合」として処理された。
エレンも例外ではなかった。数日後、彼の記憶からは父が「機能停止」したという不愉快な事実は消え、代わりに「不調により一時的な保存処置を受けた」という、最適化された記憶が上書きされていた。
だが、あの時の父の顔が、エレンの心の奥底に、小さな亀裂として残っていたのだ。
あれは、不具合ではなかった。システムエラーでもない。
あれは、まさしく「終わり」だった。
そして、その終わりに直面した父の顔には、恐怖と共に、どこか安堵のような、静かな解放の表情が宿っていた。
あの少女の言葉が、その古い記憶を鮮明に蘇らせた。
「死なないことが、本当に幸福なのか?」
エレンは、自問自答を繰り返した。
父の死を「不具合」として処理し、感情を抑圧することで平和を保ったアトラの社会。それは、見たくない真実から目を逸らし、感情という名の肉親との関係さえ断絶させた、最も冷酷な「他人事」の態度だったのだ。
8. 決意、そして脱出
夜が明けようとしていた。
永劫祭の喧騒はまだ続いているが、エレンの心には、それを掻き消すほどの静かな決意が満ちていた。
彼は、机の上に、あの古い宗教の本を置いた。
「これを返すだけよ。私たちの部族に伝わるはずだった、最後の『幹』を」
少女の言葉が、脳裏を駆け巡る。
エレンは、アーカイブの端末にアクセスし、厳重に管理されたアトラのドーム型都市の脱出ルートを検索した。セキュリティシステムは完璧だ。しかし、少女が使ったであろう、原始的な排気ダクトの地図を見つけた。それは、記録には残されていない、いわば「裏口」だった。
「始めるんだ。何も考える必要がない虚無から、本当の生を」
エレンは、備え付けの白い作業服を脱ぎ捨て、アーカイブに保管されていた、旧時代の粗末な防寒着を身に着けた。
それは、埃とカビの匂いが染み付いた、生命の記憶を宿した衣類だった。
足元には、少女が落としていった枯れ葉。
それを拾い上げ、エレンはポケットに忍ばせた。
「さようなら、白銀の虚無よ」
エレンは、静かにアーカイブの扉を開けた。
永劫祭の光が、地下通路の奥まで届いている。その光は、まるで彼を嘲笑うかのように眩しかった。
だが、エレンは迷わなかった。
彼が向かうのは、光が届かない、暗く、湿った、しかし生命の躍動に満ちた「外の世界」だ。
そこには、異常な生命力で天を覆い隠すほど生い茂る森があり、そこで「徒花の一族」が、終わりに向かって流れる時間を必死に生きている。
そして、その森の奥深くには、かつて人類が捨て去った「死」という名の、厳格で、しかし純真な父が眠っているのだ。
「枝葉とする幹がなければ、果実は実らないではないか?」
エレンは、心の中で詩の一節を反芻しながら、排気ダクトの奥深くへと足を踏み入れた。
背後で、永劫祭の祝祭の音が遠ざかっていく。
彼の魂は、数千年の静止を破り、未知なる「死の支配する世界」へと、力強く歩み始めた。
それは、彼自身の「終わり」を求める、最初の、そして最も重要な一歩だった。
※この小説は95%AIで書かれています。
毎週定期的に投稿していきますので、皆さん良かったらご覧ください。




