第2話
「ごちそうさまでした」
しんと静まり返った家の中、自分の声を聞く。
皿を洗い、歯磨きをし、食卓やテレビの周りを何となく片付けた。
「ん?」
そのチラシが目に入ったのは、偶然だった。新聞の折込広告だ。手書き風の文字と花のイラストで構成されている。
「『生きづらいと感じたらひと休みを』……?」
読んでみると、少人数の集まりで適度にストレス発散を、というのが目的らしい。主催者は、アメリカやヨーロッパでグループワークに携わってきた人間で、そこからヒントを得た催しのようだ。介護疲れをいやすことが主なテーマだが、家族のことで悩んでいる人ならおおむね歓迎。
『毎日、ぎゅうぎゅう詰めの家族列車に乗っているあなた。たまには途中下車して一人旅を。次の駅で、また家族と合流する前に、ここでゆっくり休んでいってください!』
家族への不満、家族との衝突……それを「家族列車」と表現しているのがおもしろい。興味をそそられた。開催は毎週水曜、土曜、日曜の午前十一時から午後三時まで。
時計を見ると、ギリギリ、問い合わせ時間内。飛び入りもOKと書かれているが、念のため電話を入れた。明日の土曜、試しに行ってみたい旨を告げると、そこに書かれている時間内ならいつでもよいとのことだった。応対したのは女性で、声は明るいアルト。
「缶コーヒーを買いに自動販売機の前に足を止めるくらいの気持ちで、お気軽にお越しください」
喫茶店に入るくらいの、と言わないところが、またおもしろいと感じた。一時の気分転換になればいい。
(大した金がかかるわけでもないし、退屈なら途中で帰ってくればいいさ)
ついでに、久々に本屋のはしごでもしてこよう。
一応、十一時に合わせて行ってみると、集まってくる年齢はまちまちだった。男女の比率は七対三。この日の参加者は全部で十人だった。日によって、メンバーや人数はけっこう入れ替わるという。一度だけ参加する者もいれば、常連もいる。
プロフィールを見て、合いそうだと思った者と一対一で悩みを打ち明け合う。密室ではなく、ほかのテーブルの声はひそひそ話でなければ聞こえる。ヒートアップしすぎた時はスタッフが間に入るが、心の声を大にして叫ぶことは止められていない。むしろ大歓迎。「特に初めての方は、たくさん叫んで帰ってください」と勧められる。それが、傷を治す第一歩となるのだとか。
「人数が奇数の時は?」
昨夜電話に出てくれた女性――桜沢今日子に聞いてみると、
「三人でお話しいただくか、私たちの誰かが混ざるか。希望の方が空くまで、お一人で過ごす方もいらっしゃいます」
「はぁ……希望の人ですか」
「特に聞き上手の方とかですね。私たちが入ると、こう、緊張されることもあるので」
「そういうものですか……」
スタッフは体系的な勉強、研究を積み重ねてきており、十分に注意を払ってこの会を開いているが、気楽な雰囲気ゆえに学問的なアプローチを好まない参加者もいるらしい。
「なるほど。あなた方の目が届く範囲で、ちょっと気ままな部分を出して過ごしてみようということですね」
「おっしゃる通りです。リフレッシュしていってくださいね」
料金は、ペットボトルで配られるドリンク代として一律百円。これで成り立つのか、会場費にもならないのでは、という気遣いは要らなかった。大きな一軒家に住む資産家が、人の声が響く空間にしたいという理由から屋敷の一角を提供している。夕一と同年代に見える彼は、参加者ではなく、運営にも関わっていない。人が二人、三人と集まってくる頃には、庭へ水やりにいってしまった。
「彼は私の兄なんです。無愛想ですけど、気になさらないでくださいね」
「お兄さんでしたか」
後ろ姿を見送る今日子の瞳には、言葉とは裏腹に兄を気遣う色があった。
参加者の話はどれも切なかった。親の無理解に苦しむ十代の少年少女。子育てと介護で疲弊している三十代女性。子供が家を飛び出し、親が相次いで倒れ、仕事との両立に悩む五十代男性。老親の介護をしながら自身も病気が見つかって、心のよりどころを見失いそうな六十代男性。夫の遺品を整理していたら、浮気の証拠が次から次へと出てきて苦しんでいるという七十代女性……。
夕一は、聞き役にまわることが多かった。新たな組み合わせのたび、自分のこともひと通り話した。そのつど、少しずつ変化している心境に気付かされた。
何度か通ううちに、一度、早く行きすぎて家主と二人きりになったことがあった。気まずい。彼が部屋を出ていく道理はなく、自分が出直した方がいいのは明らかだが、中で待つように言われては出ていきにくかった。彼の淹れる紅茶は美味かった。開き直って、この時間を家主の観察に費やすことにした。
穏やかな物腰。モデルか俳優と言われても納得しそうな容貌。甘さと渋さが絶妙のバランスで同居している。日増しに花が増える庭でいつも遠くを見ている男は、家の中でもどこかぼんやりとしていた。短く交わす言葉には、知性と教養が快くにじみ出る。
ぽつぽつとした会話は、沈黙の中にも多くを感じることができた。やがて話は、彼がこの部屋を貸している集まりのことに及んだ。妹が場所を探していたので、自分から提供を申し出たのだという。
「人の声とはいっても……やかましいでしょう」
話しながら泣き出す者が、毎回必ず数人はいる。咆哮と言っても差し支えないものが響くこともある。彼はちょっと眉を上げ、微笑んだ。
「耳が痛いほど静かなのよりは、いいですよ」
「そういうものですか……。しかし、無関係な人々の不平不満ばかりでは、聞いていて嫌になりませんか。……ああ、だからお庭へ」
「別に防音はしていませんのでね、そこそこ聞こえていますよ。しっかり、耳を澄ませて聞き入っていることもあります」
「はぁ……」
「この家からも、ある日、一人の人間が飛び出していきました。彼女は……帰ってこなかった」
さらりと言うから、思わず全部聞いてしまった。おまけに彼は、続きを聞いてほしそうな空気を醸し出している。
「ご関係は……」
「妻です」
「その、帰ってこなかった、とは」
聞きたくないが、彼は今、この瞬間に口に出したがっている。受け止めるのは自分しかいない。腹に力を入れて答えを待った。
「浮気相手と……天国への片道切符を持ってね」
心中だ。
「尤も、彼からすれば私の方が浮気相手だった。幼馴染みで、六歳の時に結婚の約束をしたとかで……彼女の親が、会社のためにと私に持ちかけてきた縁談でした。見合いの日、つんけんしている彼女に無性に惹かれてしまい……かわいそうなことをしました」
そう言いながらも、結婚したのは自分なのだという執着が仄見える。
「彼女にそういう相手がいることは、あらかじめ知って……?」
「いえ。知ったのは、結婚してから半年後です」
「もし、最初から知っていたら?」
「……見合いの日に会ってしまえば、同じです。言い交わした相手があると彼女の口から聞いたとしても、諦められなかったでしょう」
「……恋を、したんですね」
「はい。付ける薬などなかった。まったく、どうしようもない……」
それでも、と。彼は立ち上がって窓のそばへ行き、カーテンを握って呟いた。
「離婚すれば、あの二人は死なずに済んだのかと……今も毎日、思います。いや……私には無理だったでしょう。あなたの言うように、あらかじめ彼の存在を明かされたとしても……私は卑怯な手を使ってでも、二人の間に割り込もうとして……悲劇を招いた可能性は十分にある」
苦渋に満ちた声だ。感情を吐き出している。
「私は、恋などしてはいけなかった……」
喉の奥から絞り出すような言葉に、思わず席を立った。彼のそばへ行き、うまい言葉が見つからず、自分もカーテンの端をつかんでぐしゃっと握ってみせた。
(俺は何をやっているんだ……)
彼は夕一の行動に毒気を抜かれたように、目を少し見開いた。カーテンを、もっと強く握ってみせると、彼と引っ張り合う格好になった。顔を見合わせて、きょとんとして、同時にカーテンを解放した。
(俺の女房は、浮気相手のもとで死んでいこうとしている……。この人の奥さんは……本当に義務感だけで結婚したのか? 彼女の恋は、ひとつだけだったんだろうか)
それは、妻に対する問いでもあった。二つの恋が女の中に生まれた時、一方の男は立ち尽くすしかないのだろうか。
それでも。
恋をしてはいけなかった、などということはないはずだ。
目に涙をためた彼の腕を、励ますつもりで軽く叩いた。肩にしたいところだが、相手の背が高すぎる。頷いてくれたのは、こちらにとっても救いだった。