9 黒光りした、闇のムチ
「あの、じゃあ……まずどんなことをしたらいいのかな、オレ?」
絶望の中、オレはポルティアにそう聞くしかない状況に陥っていく。
「さっすがお兄たん……何でも見せてくれるってこと?」
憧れの視線で、ポルティアがオレを見上げた。
いや、何でもって言うか……オレ、何にも知らないんだけど……。
「でも、清らかなる闇の魂様が戦うってことは――やっぱインクを見てみたいな♪」
「インク?」
たしかに……たしかにオレは、聖なるインクの池からこの世界に生まれた。
ポルティアのお屋敷の中にある、あの、なんだかミョーな池から……。
ってことは、清らかなる闇の魂ってのは、インクが武器なのか?
しかし……インクが武器って……。
それはアレだろうか?
何か書類を書いたりする時に、めちゃくちゃ役に立つスキルってことだろうか?
いや、ちょっと待て。
そんなのが悪魔との戦いの中で、一体何の役に立つ?
『できればお引き取りいただけませんか?』とか、そういう書簡を書けってこと?
まさか。
マジで、わかんねぇ……。
「イ、インクで、何をすればいいんだろう?」
さりげなくオレが訊くと、ポルティアがうっとりと返す。
「リクエストを受け付けてくれるってこと?」
「ま、まぁ、そういうのは、やっぱ大事だよな。その、人々の期待に応えるって言うか……」
「ヤバい……お兄たん、カッコ良すぎだよ……」
「そ、そうか?」
「私ね、昔からずっと夢見てたことがあるんだ」
「き、聞いてみようか……」
「手のひらからインクを垂れ流してもらえないかな? 昔、そういった宗教画を見たことがあるんだ。まさに伝説的なカッコ良さ! 闇の力! って感じ。ビジュ良すぎだったよ。あれ、見せてもらえる?」
「あ、あぁ、アレか……うん、アレね……いやぁ、どうしよっかなぁ……」
「お願い! 見せて見せて!」
ポルティアが、オレに手を合わせる。
これは、もぉ……とりあえず、ポーズだけでもとってやるべきだろうか?
両手を前に突き出し、オレはじつにトラディショナルな『恨めしや~』ポーズを繰り出す。
無論、真顔で。
こ、これで、いいんだろうか?
ポルティアからしたら、こういうのがカッコイイんだろうか?
……で?
オレ、これからどうしたらいいの?
「やっぱ本物は違うわ……カ、カッコイイ……」
「ま、まぁな……」
「早くインクを見せて! 清らかなる闇の魂様がどんなインクを見せてくれるのか、私ドキドキする!」
手からインク……手からインクって……。
それはアレか?
どっかの老舗旅館の女将が、宴会の余興で披露する水芸みたいなもんだろうか?
しかしこれでインクを出せなかった場合――ポルティアは一体どんな反応をするだろう?
ウェイトレスさんの話では、ポルティアのお屋敷には時折謎の修道士が現れ、一ヶ月くらいで姿を消すという。
街の噂では、殺されたか、喰われたか、らしい……。
どうすんだ、オレ……。
これはオレの、生死がかかったロンリー舞台……。
もしインクを出せなかったら、オレ、異世界くんだりまで来て、こんなチビッコ魔術師に殺されちゃったりすんの?
喰われたり?
いや、いや、いや……切なすぎるだろ、そんな人生……。
なんとか……なんとかしてインクを出さなきゃ……。
オレは目を閉じ、必死で念じてみる。
インク、出ろ……。
インク、出ろ……。
マジで、インク、出てください……。
ここでインクが出てくれないと、ボカぁ……マジで殺されちゃうような気がしてます……。
「!」
刹那――オレの心臓がドクン! と荒々しく脈打った。
今まで感じたことがない、鋭く、えぐるような痛み。
一瞬心筋梗塞かと思ったが、それは違った。
恨めしやなオレの両手がどんどん熱くなってくる。
全身の隅から隅までの血管が拡張し、めちゃくちゃ力強いエネルギーが循環していく感覚。
ローブからはみ出た自分の腕を、オレは凝視した。
「え……」
いつの間にか、オレの腕に何本もの真っ黒な線が生まれている。
それはまるで血管に沿うように、いや、血管そのもののように、神秘的な模様として浮き上がっていた。
「こ、これは……」
自分の肉体の異変に、オレは目を見開く。
次の瞬間、熱くなったオレの手のひらから、何かがこぼれ落ちてきた。
ボト、ボト、ボト、ボト、ボト……。
それは路地裏の地面に、とめどなくこぼれ落ちてくる。
それを見て、神にでも邂逅したかのようにポルティアが胸で両手を合わせた。
彼女の瞳が、陶酔の色に染められていく。
ウェイトレスさんは、両の手で口を押さえ、目の前の奇跡に息を飲んでいた。
「す、すごい……やっぱりお兄たんは……間違いなく、清らかなる闇の魂様……」
え? あの、ちょっとマジですいません。
オレ、ホントに清らかなる闇の魂なの?
いつの間に?
って言うか、いつから?
どうしてこんなことになってる?
一体、どんな経緯で?
この時点で、ようやくオレは自分が異世界に来ていることを本気で自覚する。
ずっと夢だと思ってた。
こんな夢、そろそろ覚めると思ってた。
でも、これって……マジなの? マジな感じ?
「ふ、震えてきたぁ……私のお兄たんは、闇の力によって、この世界を幸せに導いてくれるお方……」
オ、オレが?
この世界を幸せに導く?
いや、でも、オレ、これまでの人生の最高ポジション、小4の頃の給食係なんだが?
しかもみんなメンドいから、全部オレに押し付けてきたやつ……。
かつて給食係だったオレが、この世界を、幸せに導く?
「ね、ねぇ、ポルティア」
「は、はい。何でございましょう、清らかなる闇の魂様……」
感動の余り、ポルティアは完全に妹設定を忘れている。
しかしオレも、それをたしなめる余裕すらない。
「これからオレ、どうしたらいいの?」
「世界を……世界を救ってください」
「世界を救うって……どうやって?」
「リクエストは……闇のムチでございます」
「闇の、ムチ?」
いや、ちょっと待ってくれ。
ずっと内緒にしてたけど、オレはその、どちらかと言うと、ムチで打たれてみたいタイプなんだ。
もちろんプレイ用の、安全なやつで。
いつかきっと、そういったお店に行ってみたいと思ってた……。
だがそれを想像した瞬間――オレの右手から溢れるインクが、あろうことかムチの形に変化していく。
ま、まさか……こ、このオレが、ドS役?
って言うか、余計なことすんなよ、インク!
オレの手の中にある黒光りしたムチを見て、ポルティアが夢見るように続ける。
「あぁ、清らかなる闇の魂様……あの悪魔に、なにとぞ正義のムチを……」
せ、正義のムチって……オレ、マジでどうしたらいいんだよ?
オレは人をムチで打ったことなんかないんだぞ?
って言うか、どちらかと言うと、気の強そうな美人に高笑いされながら打ってもらいたい側だ……。