Life 130 僕は病人?
「う~ん」
「無理しないで寝ててもいいんだぜ、大将。」
会社に出社している。あれから5日。相変わらずまぶたは腫れたまま。派手に動けないから、実家の母親には、またしても娘が付きっきりになっている。そして妻は相変わらず忙しい毎日。
無理はしていないけど、身体が元気なのが困る。そりゃ、妻に求められるぐらいだし、ただじっとしていても、身体は反応する。僕が欲望を吐き出し、おぼろげながらに見える妻のうっとりした表情と美しい身体。視覚って本当に重要だなと思った。
「いやさ、こうやってメガネを新調して、倒れた時よりも視界はクリアになってるんだけど、どうも違和感が残る。まぶただけの問題なのかな?」
「俺は医者じゃないぞ。だいたい、その状態でモニター見てるとか、やっぱり異常だよ。暇なんだから、適当に勤務表付けて帰ってもいいんだぜ。」
「まあなぁ、それもありだと思う。ただ、身体が元気なんだよ。ここが意識との不一致。」
「......それが不思議でたまらん。普通、ぶっ倒れて、そんなに大きなアザまで作って、さらにまぶたが半分開いてない状態、身体のどっかしらにダメージはあるだろうに。」
「残念ながら、妻が喜ぶぐらい、身体の先まで元気いっぱいっていう話。うちの妻が、僕にまたがってる時点で、お察しだろ?」
同僚は変な顔をして、こっちを見る。ああ、そういえばコイツにはそういう話をしたことなかったな。
「......お前もおかしいが、可愛い顔の奥さんもおかしいだろう。」
「そう思うよね。でも、あの人もそういう重圧と戦ってるし、僕も応えなきゃって。」
「いやいや、そういう問題じゃないだろ。大将が単純に断ればいいだけの話でさ。」
「僕の妻に迫られて、断れる自信がある?」
同僚が言葉に詰まる。まあ、男の本能と欲望、そして我が妻の特異体質とおねだりの仕方。理性では拒めるけど、事実は僕の感触が知るところだ。
「なんか、やっぱりお前の家族が異常だよ。知り合いの娘さんを育てて、その姉が初恋の人で、おまけに娘さんと瓜二つ。そんなエロゲーみたいな世界、どこにあるんだよってな。」
「ここにある。僕が知りたいぐらいだよ。何を考えていいのかわからない。GeminiもChatGPTも教えてくれないだろう?」
「そんな質問をする大将が愚かだと思うよ。しかし、自分を労るのも仕事だぞ。その辺は大丈夫なのか?」
「労りたいけど、労れないほど元気だから困ってる。こればっかりは先生ですら運が良すぎたというぐらいだからね。」
「ま、その代償がiPhoneとApple Watchか。死んだらジョブズに感謝を伝えろよ。」
「ああ、iPhoneをじいちゃんに見せるのも面白そうだな。トルクスドライバー持ってるかな?」
「は?やっぱりおかしくなってないか?」
「おかしい?ああ、おかしいか。いや、走馬灯っていうけど、僕の脳内にはそういう記憶が刻まれていた。臨死体験ってやつかな。」
「......なんか、俺が辛い。」
「すまん。でも、僕が体験している話はこんなもんなんだ。そこが処理出来ていない。妻や娘にも言ってない。いうべきなのは分かってるけど、それが正解だと思ってない。」
「そうだな。少なくとも、俺がお前の奥さんで妄想した分ぐらい、何かおごれよ。」
「クーポン対象だったらいいよ。まあ、1000円ぐらいだろ?」
その日、僕はマックで2000円も払う羽目になった。物価高とはいえ、マックに2000円は少し重い。
視界は悪い。確かに、やや足はもつれ、満員電車では優先席に座ってしまうほど、気分は悪くなる。脳内のダメージはないが、これは物理的なダメージによるものだと思っている。
しかし、身体は軽い。普通の日より軽い。つまり、僕は丈夫にできているが、気分を制御出来ていない。だから、イマイチ体調が優れない日のほうが多いのだろうと本能的に理解している。
「ま、それでもコンビニでお惣菜を買うほうがマシかな」
妻の料理が、料理と呼べる代物ではないことを知っているし、疲れている妻に買い物を頼むわけにいかない。だから、娘のバイト先のコンビニに立ち寄るわけだ。
「よくもまあ、そんな傷とアザで、会社に行ってるわよ。無理しちゃダメじゃない。」
「そう言わないでください。ただですら娘がいなくて、またバイト休業してもらってるわけだし、僕だけのうのうと暇しててもダメだと思うから。」
「そういう責任感、アンタが壊れる予兆でしょうに。あの子に心配を掛けさせるような真似をして、ダメな親だね。」
「ダメな親、......そうですね。母親が倒れ、僕が倒れ、あの娘まで倒れたら、今度こそ一大事ですよね。」
「理解していて、その減らず口は感心しないわよ。無理しちゃダメよ。」
「分かってますよ、おばさん。娘の親代わり、もう少しお願いしますよ。」
「気にする必要はないよ。アンタは自分のことだけ考えて、自分を大切にしなさいな。」
久々に会えば、説教される。あの娘だけじゃなく、僕もこの人には何度も助けられてるな。コンビニの店員さんから、おばさんになり、今はもう一人のお母さんか。娘の言いたいことがよく分かる。
「言ってもらえれば、私が買ってきましたよ。」
そういえば、娘よりもダメな子がいた。高嶺の花にして、心を許すと我を忘れる困ったお嬢さん。妻なりの気遣いか、それとも彼女自身の押しの強さか。いくら妻の会社の後輩といえど、顔を合わせるのも3日目だ。1日おきに来るけど、それで大丈夫なのかな?家も遠いはずなのに...。
「それはいいんだけど、君の母親は心配しないの?」
「そこは私も彼女に言うんだけどね...。なんというか...」
知ってる。死別した父親の代わりとはいかないけど、一応彼女の相談相手ぐらいにはなろうと思っていた矢先だ。彼女の想いはどっちなのか、僕も読めない。
「まあ、お母様には、私がちゃんと話をしてるし、私たちと同世代だから、やっぱり気持ちが分かっちゃうというかね。」
「母にはしっかりと恩人には尽くすんだよと言われてるんです。おねえちゃんがいないなら、お父様のお世話は私がしないと。」
「顔を見せに来てくれるのはうれしいよ。でもさ、お世話されるほどでもないし、それなら自宅へ帰って、僕にビデオ通話してくれてもいいと思うけどな。」
「お父様が深夜に迷惑だって言うからじゃないですか。なんか...さみしいです。」
「って感じなのよね。そういうわけで、今日は泊まるんだって。あなたはベッドを使って。私たちはここで雑魚寝する。」
「いやいや、それこそダメでしょうに。お嬢さんを預かってるんだよ。」
「でも、重病患者はあなた。それに、あなたの匂いの染み込んだ布団に、彼女を寝かせるわけにもいかないでしょ?」
「あ~...そういうことね。」
我が妻ながら、相変わらず邪な考え方。まあ、この人は昨日ですら僕を飲み込むような人だし、やっぱり、少し壊れてきてる。負担になりたくないのに、負担が彼女を壊していく。
壊れた僕だから分かる。壊れる前の人間は、少し見境がなくなる。重病患者と頭でわかりつつ、本能で腰を振る。理性と本能の乖離が激しくなれば、人間は壊れる。だから、後輩さんが来ている。娘の代わりか...。
あの娘が僕の母親の面倒を見始めて、もう数カ月か。聞けば、リハビリもほぼ終わって、あとは許可が出れば退院らしいが...。
「お父様?」
「ごめん、少し考えごと...?あれ?なんか悲しい想いをさせちゃった?」
涙ぐむ後輩さん。理解力が高いと言われる彼女だが、おそらくこの辺は、僕らと同じ世代の、彼女の母親の遺伝子が強いのだろう。彼女の母親は、死別した後の旦那さんに絡まれ、そこで旦那さんの魅力にいち早く気づき、その場で告白したと後輩さんから聞いている。同性の今の僕ですらこの子が持っていた家族写真を見て、20代とは思えないシブい空気が分かった。母親が直感で道を開いてきたように、この子の遺伝子が、僕と妻の異変に気づいている。
「泣かせちゃダメじゃないの。まったく。」
「とは言え、どうすることも出来ないよ。困ったなぁ。」
「あっ、ごめんなさい。困らせるつもりはなかったんです。私が考えすぎただけです。」
涙を払い気丈に見せようとする後輩さんだけど、その割に、鼻がピクピク動いてる。レンジで温めてるカレーに気を取られ始めた感じ。
「いい匂いがしてきたわね。しかし、なんかここのところ、カレーばっかり食べてない?」
「君たちが料理出来れば、僕だって毎日夕食にカレーを出したくないよ。」
不思議なもので、妻と娘は料理がからっきしダメなのは知ってたが、後輩さんが出来ないのは意外だった。この子の母親は、うちの妻よりも苦労していながら、完璧に家事も出来るようだ。人を比較しちゃいけないと思うけど、妻と娘が同じ人間とは言え、一人暮らしを20年もしていて、からっきし料理がダメな妻、教えても味のセンスが絶望的な娘。DNAが同一だからこそ分かることだけど、この子の場合、母子家庭でありながら、家事をしないまま生きてきたという。母子家庭の箱入り娘というのは聞いたことがない。まあ、料理はセンスも必要だけど、まさか寝起きも悪い、着替えに慌てる、すっぴんでも美しい顔立ちだからほぼノーメイク。社会人でこれだけ自分のことが出来ないのに、妻や会社の同僚が可愛がるが、表情を崩さない。さらに仕事が出来ると。言葉選びに躊躇しなければ、本物のサイコパスだ。二面性がここまで違う人間だから、妻は気に掛けるし、可愛がるのだろう。
「だから、私が買ってきますから、先輩も私に言ってくださいよ。」
「う~ん、この際だから言うけどね、私たち、こう見えて茶色い食べ物はカレー以外、身体が受け付けない年齢なのよね。ファミレス行っても、ビールのつまみで甘い物食べてるでしょ?あ、ホットケーキも茶色いか。」
「いや、色の問題じゃなくて、脂っこいものが受け付けないってことなんだよ。でも、娘や君に食料調達に行ってもらうと、もれなく揚げ物ばっかりになる。君にも分かる日が来るけど、それは20年後ぐらいかな。」
「そうなんですか?母は今でも揚げ物を食べてますよ?」
「君のお母様は、どこまで超人なの?この人と同じぐらい若く見えて、君を育てて、おまけに内蔵すらやられてないって。」
「母が大丈夫なんだからと思ってたんですけど、ごめんなさい。」
「謝らないでほしいの。気持ちはうれしいのよ、だけど、この人も私も年相応になってきてるってことなのよ。お母様も陰で色々しているのかもしれないわね。」
僕には分かるけどね。妻が仕事とトレーニングしているカロリーが、この子の母はすべて仕事と家事で使い切っている。その差だから、若々しさを保ってるのかもね。人間は恐ろしい生き物だよ。
「ま、今日は昨日の残りだし、好きなだけ食べていいよ。あ、オムカレーにする?」
「いえ、そこまで手を煩わせるわけにはいきません。」
「う~ん、どこまで本気なのか分からないけど。あ、ごめん、容器は用意してあるから、適当によそって食べて。」
「あなたは食べないの?」
「残念ながらね。昼飯、マック食べてさ、胃の調子が悪い。」
「お父様もジャンクフード食べてるじゃないですか。説得力ゼロですよ。」
「深い事情があるんだよ。気にしないでいいし、普段マックなんか食べないから、罰でも当たったんだろう。」
「5日前に倒れた人が縁起でもない。そういうことを言わないで欲しい。」
「5日前に倒れた人をお風呂に誘って、動かないでと言いながら腰を動かしてた人に言われたくないね。」
「そうやって、すぐ人を言いくるめようとする。ずるい人なんだから。」
そう言いつつ、レンジから温めていたカレーを出し、容器に移し替える妻。これを日常的にやってたらなぁと思った。
「あの、お父様。」
「ん?どうしたの?」
「先輩とお父様が一緒にお風呂に入ってイチャイチャするのは分かるんですが、先輩が腰を動かしているのはどうしてなんですか?」
「君が次の彼氏を作った時に相手に尽くそうと思ったら、もしかするとそういうことをするかもね。」
「エッチなことですよね?」
「そう、人前で言えないぐらいエッチなことだよね?」
「言ってるじゃないの。バカ。」
苦笑いする妻だけど、それが普通じゃないことに気づいていない。こりゃ、後輩さんに感謝だな。
「で、大将はどうしたわけ?」
「どうしたも...。僕はリビングで自分の布団を敷いてで寝た。もちろん、2人分の髪の毛を乾かしてから、シャワーを浴びてね。」
「さすがの奥さんも、自分の会社の後輩に失態を見せられないってか。」
「失態は筒抜けだよ。娘が彼女に伝えてるらしい。妻の血色の良さもそうだけど、あの人、肌年齢が20代前半らしいんだよ。怖いよね。」
「それって、薄化粧すらいらない日があるってことかよ。お前、本当にすごい人と暮らしてるんだな。あんなに年相応の挨拶が出来るというのに。」
「見栄っ張りだからじゃない。それに、理性で押さえられているほうが、妻は可愛いんだよ。」
「のろけか?」
「のろけかな。考えてもみろって。自分の妻が、控えめにお風呂に誘ってくる。単なるスキンシップをしてるうちはまだ可愛い。しかし、本能をむき出しにして襲いかかってくるから、僕は動かなくてもいいってわけ。」
「伏線を自ら回収しなくていいぞ。しかし、そんなことがあったとはなぁ。きっと、その後輩が、奥さんをよく見てるんだろうね。女性は同性の変化に敏感だというし。」
「あの子なりに、僕らの心配をしてるから、様子を伺いに来たってところなんだろう。優しい子なんだけど、娘以上に朝は世話がかかるから、僕も妻も平日に来てほしくないってのが本音。」
「そういうタイプの子ね。可愛いじゃないの。」
「お母様の気苦労も、若さの秘訣ってことかな?」
「だって、その子も娘さんと同じぐらいだって言ってたけどさ。」
「母親は僕らより一つ下らしい。同世代で、昔の写真と今の写真を見比べて、うちの妻と変わらないぐらいに全く歳を取っていない。ある意味魔女だ。」
「自分の妻が化け物で、その化け物が可愛がる後輩の母親が魔女...。大将、たとえのセンスがないよな。」
「そういうセンスはなくていい。むしろ、この会話を自然と出来るお前がおかしい。」
「そりゃどうも。でも、無理するなよ。結局、病人であることには変わりはない。それに、明日は検査なんだろ?ドタバタに巻き込まれて、自分の状態を見失うな。」
「ありがとう。そう言ってくれるのも、お前だけだよ。持つべきものは良い同僚かな。」
つまり、僕は出勤していたほうが、精神的に安定する。頭痛や気分の悪さをかわすには、こういう話の出来る人間が必要なんだ。本来は、それが妻であり、娘であるべきなんだろうけど。
家族、すれ違ってきてるな。どうしたらもう少し上手く立ち回れるだろうか。今はあの人を守り、守られて生きるしかない。あの娘がいれば...か。親失格かな。
つづく




