Life 119 私はお母さんをもうなくしたくない
「そうそう死ぬような人じゃない。まあ、父親が付き添ってるから、落ちつくんだ。」
「だけど、おかーさん、もう年齢を考えたら、死んじゃうかもしれないんだよ?」
僕の母が倒れた。それは1本の電話だった。
「今病院にいる。お母さんが倒れた。意識がない。来れるか?」
「いくいく。どこの病院に運ばれた?」
それから、父はこうも言った。
「あの子を連れてきてくれ。お母さんが可愛がってたし、本人もそうしたいと思う。」
「ああ、合流して連れて行く。何かあったら連絡をくれ。」
それから僕らは赤羽駅で合流した。妻にはあえて声を掛けなかった。彼女は仕事に集中させて、終業後に連絡しようと思っている。そういう立場の人間だ。
そして、電車の中で彼女は狼狽している。これほど焦るこの娘を見たことがなかった。
親としてこういう時、彼女はまだ子供なのだなという思い、そして本当の親ではないにしろ、2度も母親を失うのは、絶対に嫌なのだろう。
「すまんな。仕事は?」
「人が倒れて、仕事なんてやってる場合かよ。それで、どうなんだ?」
「ああ、意識が戻ってない。今は集中治療室に入っている。とりあえず、今日は17時にもう一度面会出来るが...。」
「私も行っていい?」
「お前が入って、お母さんに声を掛けてあげて欲しい。俺達より効果があるかもしれない。」
「まあ、それもあるが、生き死にってレベルの話なの?集中治療室ってことは。」
「いや、幸い手術は成功してるし、脳梗塞が末梢動脈で起こってたようで、幸いにも軽いようだ。万が一もあるだろうから集中治療室だけど、そこまで心配するようなことではないと思ってる。」
「僕でいう、ひどい偏頭痛で、記憶がなくなるようなものか。」
「そんな話はどうでもいい。私が面会する。」
僕らの話に苛立ちを覚えたようだが、頭を撫でて、落ち着かせる。
「君が落ち着かなくてどうする。オカンの容態が悪ければ別だが、今は安定しているようだ。だから、君が励ます役割を果たせばいい。と言ってもね。」
今は15時か。2時間ある。売店で少しお昼でも食べよう。それからでも遅くはない。
17時、集中治療室に入れる人間は最大で2人。時間にして約15分。しかし、確かにバイタルを計測する機器などが並んでいて、独特の緊張感がある。昔、切開しないと抜けない親知らずを抜く時に、こんな部屋に入れられた記憶があった。ただ、その中央にあるベッドで、いつものように昼寝しているようなオカンがいた。あの娘は近づいて、色々呼びかけているが、起きる気配はなかった。酸素呼吸器は付けているようなのだが、付き添いの看護師さんに話を聞く。
「それで、母はどんな状態なのですか?」
「おそらくは一時的な昏睡状態から意識を失ったのだと思われます。その証拠に、脈拍数も過去のデータとほぼ一致しますし、血圧もやや低い程度です。脳にダメージがあったような感じではないので、目を覚ますプロセスみたいなもの...、簡単に言えば、寝起きの問題です。」
「深刻な状態ではないのですか?」
「深刻だったのは、旦那さんのほうでした。説得しても、聞き入れてもらえないんです。だから、電話もこちらから指示させていただきました。非常に失礼な行動だったと思いますが、患者さんより付き添いの方のほうが混乱しているということは、よくあることなので。」
そういうものなのか。しかし、よくよく思うと、なぜ僕がここまで達観して見ていられるのかも少々疑問だ。看護師さんの話もそうだけど、あの娘が僕の気持ちを肩代わりしてくれている。そう思っていいのかもしれない。
「ねぇ、おかーさん、オトーサンの話、もっとして欲しいよ。オトーサンも来てるんだよ。」
呼びかけるようにオカンを起こそうとする娘を見て、僕はなぜか昔の自分を思い出してしまった。駄々をこねる子供と行動的には変わりない。ただ、こねる相手に反応がない。人間にとって、一番恐ろしいのは、無反応だと言われている。彼女は、その状態に支配されつつあるのだろう。悲壮感が漂う。これほど空気が重くなるものか。
「...オトーサン、起きないよ。」
「話は看護師さんから聞いた。今は疲れて寝てるようなものだって。だから、じきに起きるさ。オカンを信じてまとう。」
「明日の面会は一応9時45分からとなりますけど、万が一に備えて、病院内で待機しますか?」
「私が残ります。おかーさんとは、私が起きた時に話さなきゃいけないと思う。」
「オトンはどうする?いずれにしても、疲れただろう?」
「そうだな。俺はまた明日の朝に来る。お前は?」
「僕はこの娘の親だしね。それに、この娘は名義上は僕の娘だけど、手続きが必要になった場合、親族が必要になる。それを考慮すると、僕がいたほうがいいだろう。」
「助かる。アイツはこういう時でも子供がいるだのなんだのって。」
「そのための僕だと思ってくれればいいよ。オトンも若くないんだから、早く帰って寝たほうがいい。明日寝坊するかもしれないよ。あ、それと車で来て欲しいかな。」
休憩ルーム。はっきり言って、こういうところで高い椅子を置くのは、本当にやめて欲しい。パイプ椅子ぐらいでちょうどいい。あるいはソファーとかさ。
幸い、隣にはコンビニがある。病院内のコンビニにしては、厨房があったりと珍しい感じだ。温かいごはんにありつけるのはありがたい。
しかし、この娘だ。やっぱりショックが大きいのだろう。もう、僕とは違う関係をオカンとは築いていたからなのだろう。コンビニのおばちゃんと、オカンは彼女にとって現在の母であり、失うのが一番怖い存在なのだろう。もっとも、僕や妻が亡くなるという可能性もあるけど、それは考えていないのだろう。
「それで、とりあえずは大丈夫そう?」
「まあ、看護師さんの話を聞く限りはね。状態としては、寝てるだけみたい。だから、それほど心配はしていない。むしろ心配なのは、あの娘のほうだ。」
「懐いてたもんね。それも、やっぱりあなたと同列に、自分の娘みたいな感覚で話す。私には入れない領域だからこそ、あの娘が心配するのは、当たり前だと思う。」
「......ごめん。連絡しなかったこと。」
「知ってるわよ。私はあなたと違って、この家を守る必要があるの。それに、今日はいつもの同僚を連れて来た。宅飲みってやつよ。あなたのお母様の無事を願ってね。」
「明日、平日だよ?」
「分かってるわよ。まだ19時でしょ?多分泊まるのはあの子だけ。二人は返すわ。片やまだまだ新婚、片や親御様が心配するもの。」
「彼女、あの娘に連絡してないみたいだね。」
「無力だって言ってたわ。何か声を掛けてあげて欲しいと言ったんだけど、掛けてあの娘の心が乱れるなら、あえて掛けないほうがいいと言ってる。大人よね。」
「......ちゃんと、朝起こしてあげてね。」
「あら、父親気取り?嫌でも引っ張っていくわよ。それよりも、あの娘のことをお願い。あの娘に守られるのがあなたなら、あの娘を守るのもあなたの役割よ。」
「努力はするよ。それじゃ、楽しく飲んでくださいね。」
......ん?寝ちゃってたか。あ、スマホのバッテリーが切れそうだな。モバイルバッテリーあったかな。
「あれ、いない。」
娘が消えた。消えたのかなんなのかよくわからないが、少なくとも今は...4:32か。トイレにでも行ったかな。
しかし、待てど暮らせど彼女は戻ってこない。僕の実家に帰ったということはないと思う。ということは、オカンに何かあったかもしれないということか。
「あ、息子さん、患者さん、目を覚ましましたよ。お孫さんと楽しそうに話してます。もうすぐ面会時間終了なんですが、少し話しますか?」
「ありがとうございます。しかし、なんであの娘だけ?」
「お父様がここで疲れて寝てしまうほど辛かったのだと言って、わざわざ起こさなかったみたいですね。」
オカンを心配する中でも、僕も心配してしまう。あの娘は優しい娘だから、そう思ったのだろう。しかし、それが心配なのも親心ではある。
「あら、面会時間は終わりじゃないんだっけ?」
「それが理解できてるってことは、大したことではなかったということだね。生きた心地がしなかった。」
「そう。それは悪かったわね。だけど、アンタじゃなくて娘ちゃんが最初に来てくれたことのほうが嬉しかったわよ。」
可愛い笑顔でオカンと話す彼女を見ると、なんかホッとする。親としてなのか、恋人としてなのか、それはよく分からないけど、彼女の笑顔は空気を一変させる力がある。僕の友人たちが言うように、この娘の喜怒哀楽は、その場の空気を支配する。その力に気づいていないから、無邪気に喜怒哀楽を表現出来る。一生本人には隠すべきだろう。
「ねぇ、おかーさん。明日も話せる?」
「...?話せるよ。面会の時間に、また話そうか。」
「うん、約束だよ。」
こうして、束の間の面会が終了した。娘に生気が戻ったように、嬉しそうな顔をしているのが印象的だった。彼女は知らないうちに20年後に飛ばされ、もうここで5年以上暮らしていて、オカンとも2年以上付き合いがある。自分の母親が生きていれば、きっとこのぐらいの年齢になるのだと思うから、おかーさんと呼ぶし、オカンを心配するのだろう。近い将来、この娘とオカンには永遠の別れがくる。そのことに少し危惧はしている。僕も同じ思いではあるが、この娘より思い入れはないかもしれない。実の母親なのに、なぜそう思ってしまうのだろうか。そんなことを思うと、少し悲しくなってしまった。
「嬉しくないの?」
「嬉しいけど、まあ、親には考えることがあるってこと。君が優しいように、僕も少し考えるところはある。まあ、死ななかっただけ良かったよ。」
思わず娘を抱き寄せてしまった。
「えっ、どうしたの?オトーサン。」
「僕は大人だけど、オカンの前では一生子供なんだよ。親が生きてるって、幸せなんだと思って。」
「...うん、君の親だけど、今は私のおかーさん。もっと、いろんなことを話したいな。」
この娘の母親代わりか。まあ、母親が自分であることより、ずっといいのだろう。コンビニのおばさんもそうだけど、きちんとした親の立場の人間は、人間には必要なんだろうなと思った。
「ごめん、一つお願い事、聞いてもらっていい?」
「うん。」
「少しだけ、このまま眠らせて。」
「病院の休憩スペースだけど、大丈夫かな?」
「寝るだけなら大丈夫でしょ?横になるわけでもない。周りの視線も少ないし、大丈夫だよ。」
「...うん、そうかもね。」
そして、ほんの少しだけ、僕らは寄り添って二人で寝た。
「......て、起きてよ。」
「ん、ああ、おはよう。」
「おはようじゃないよ。硬いの、当たってる。こんな時に何考えてるの?」
「まあ、面目ない。」
「ねぇねぇ、おねえちゃんもいないことだし、君の実家で、エッチしちゃおうか。和室のエッチって結構憧れてたんだよね。」
「オトンはどうするの?それに声だって周囲に聞こえるよ?」
「でも、エッチよりおかーさんだよね。おかーさんが元気になるまで、おあずけ。」
「言われなくてもそうするつもりだよ。まあ、外野もうるさいしね。」
それからの2日は、地獄のような日々だった。
オトンの興奮をなだめ、集中治療室でも隣に漏れる話し声を娘が一喝し、大人しくなる様子を見て、僕の両親はこの娘のほうが僕より大切にされていると、少し複雑な思いを感じた。医者から状況を聞き、その話をオトンに伝える。そして娘は面会時間ばオカンにべったり。もう、僕抜きでもいいのかもしれないと思った。
「あの子がいるおかげで、お母さんは確実に元気になってるよな。」
「可愛いんだろう。ほら、自分の娘が可愛くないし。」
「ワガママ放題だし、孫の世話をさせる親だからなぁ。」
「その点、あの子はお前以上にしっかりしてるし、お前の奥さんがよく育てたというか。」
「ああいう娘なんだよ。不思議と誰からも可愛がられる。世界にはああいう娘がいるんだよなぁ。」
オカンは一般病棟に移った。
基本的に面会時間は変わらないが、彼女は絶対に自分が行くという。その空気感もあってか、もうナースステーションの看護師さんとも仲良くなってる。この娘はもはや人たらしとも言えるレベルだと思う。ただ、彼女は大学生。この時期に大学にいかなくてもいいのか?と聞いた。
「えっ、単位だけなら、もう卒業出来るよ?ゼミには事情を話してあるし、出てない授業には二人にノート頼んであるから大丈夫。」
ま、そりゃそうか。彼女のネットワークを使えば、誰で問題なくってやつだよな。
「オトーサンも東京に帰って大丈夫だよ。私がおかーさんに付きそう。おとーさんだけじゃ不安だと思うけど、私がいれば安心出来るでしょ?」
「ああ、まあ、そうなんだけどさ。2つ心配なことがある。一つは実家の荒れ様だな。まあ、オトンがしっかりと洗濯さえしてくれれば、その辺は心配ないけど、部屋が荒れるのはちょっと困る。まあ、些細な問題だけど、入院そうそうにオカンに片付けやらせるのはどうかと思うし、五体満足ででてこれるとは思えない。その辺は覚悟しといてくれ。」
「うん、分かった。私はオトーサンの部屋で寝るから大丈夫だよ。あ、さみしくなったら、おねえちゃんみたいなことしていい?」
「週末には帰って来るよ。そこまで心配することではないさ。むしろ、東京に帰ってあの人の相手をしてたら、ねぇ。」
聞いていたから知っていたけど、そりゃ毎日のように寂しくて慰めてるって。それを友人からのLINEで知るって、僕の妻はどこまでおおっぴらなわけ?
「もう一つ、僕のオカンに寄り添ってくれるのは嬉しいけど、君が寄り添う必要はないんだよ?」
「前にも言ったよ。私は、もう自分の母親がいなくなるのが嫌なの。おねえちゃんもだけど、実の母親は失踪して、おねえちゃんには仮の母親がいる。けど、私にはおかーさんだけが母親。あ、おばちゃんも母親だけど、私はもう母親がいなくなることが絶対にイヤなの。オトーサンが思っている以上に、私はあの人に感謝してるし、なによりオトーサンのことも、愚痴も、昔のことも、いっぱい話して、聞いてくれる。オトーサンやおねえちゃんとは違う、私の大切な人だから。」
「......ありがとう。まさか、オカン本人もあの歳になって、大きな孫が出来たことが嬉しいんだよな。悪いけど、オトンも一緒に頼むよ。」
「おとーさんも、私には甘いよ。たま~に、お風呂を覗かれてる気がするけど。」
「水でもかけてやれよ。ま、孫が可愛いんだよ。僕がいうのもなんだけど、孫の役目、任せるから。」
「任されたよ。オトーサンに居場所がなくなっても知らないからね。」
「ってわけで、今日で一旦東京に戻るから。」
「アンタにも面倒を掛けたけど、アンタ以上に世話を焼いてくれる子がいるから、私は安心だよ。」
「あの娘にはほとんど何も言ってない。強いて言えば、実家を汚すなとだけね。」
「退院して、最初に掃除しなきゃいけないとか、何かの拷問かしらね。まあ、いいわ。」
「すまんな。遺言を守れなくて。」
「最初に見つけたのがお父さんだから、守れなくてもしょうがない。それに、あの子ともう少しだけ生きようと思えたから、結果として良かったよ。」
「あの子は母親を求めてるようだから、実の娘のように接してあげて欲しいかな。あれ、そう言えば実の娘は?」
「何度か電話を掛けてきただけ。電話なんてでられるようなものじゃないのに、病院すら分かってないのかしらね。」
「あっちが本物の孫なんだから、少しは許してやれよ。それじゃ、なんかあったらあの子に言って。僕以上になんとかしてくれる。」
「すまないね。可愛い娘を拘束しちゃって。」
「また週末に来る。」
「奥さんも気にかけてあげなさいよ。絶対に寂しがってるから。」
「それじゃ、行ってくるから。なんかあったら連絡してね。」
「うん。......あのさ、不謹慎かもしれないけど、キスして。」
この娘も気を張ってたんだろう。軽くキスをしてあげた。」
「え~、もっと濃厚なやつ。」
「病院の中で出来ると思うな。君はAVの世界ででも生きてるのか?」
「冗談。うん、私は大丈夫。いまので十分だよ。オトーサンも、私がさみしくなったら、こっちに逃げてくれば。」
「そうする。いや、ここ数日、眠りは浅いが、身体が楽だよ。衰えてるな。」
「頑張れ、おねえちゃんは手強いぞ。じゃあ、私はおかーさんのところに戻るね。」
「いってらっしゃい。」
なんとなく、あの人の後輩の母親が言っていた、「愛想笑いでも、笑っていれば、良い方向に物事は動く」という言葉を思い出した、あの娘の場合は本当の笑顔だけど、笑うことは、人間の心理状態に良い方に働く。それが良い方向に働くことに、僕は期待している。いや、もう動いているから、オカンもあれだけ話せるんだな。脳梗塞だから、言葉が不自由になるのかと思っていたが、末梢の動脈で助かったというところか。
「会いたかった。一人はさみしい。晩酌には話し相手がいるものね。」
「あのさ、おひとり様生活が長かった割に、話し相手、いる?」
「あなたと話したかった。だってLINE通話じゃ盛り上がらないんだもん。」
とはいえさ、格好がアレなんだよなぁ。部屋着でなぜかショーツ1枚。それでもってエビスを持って抱きついてくる妻、僕の理想の女性ではない。
「ま、二重で安心していい。あの娘はしばらく...まあ、オカンが退院するぐらいまではあっちにいる。その間、僕は週末だけ向こうに帰る。つまりは」
「やっぱり相手がいるっていいわよね。気持ちの充足感が違いすぎる。それに、色々な話が出来て、私も楽しい。こうやってると、定例会って重要なのね。」
「定例会が重要じゃなくて、君の髪の毛を綺麗に乾かしている間に、世間話が出来る相手がほしいんだろう。」
「そうじゃない...そうかもしれない。でも、帰ってきてくれて嬉しい。さ、早速、晩酌が終わったら、私を女にして。」
「......懲りない人だな。ま、今日は少し頑張ってみるよ。」
僕らは不慮の事故でもない限り、あの娘より先にあっちの世界に行く。その心配をする必要が今あるわけではないが、彼女がその時までに、本当に大切な人と生活出来ていると、僕は嬉しい。ま、向こう20年先の話か。
つづく




