第七話 月下の騎士
「やっと……、着いた……」
すっかり夜も更けた頃、全身泥だらけ擦り傷だらけの悲惨な姿で城に帰り着いたロンは、思わず城門の石壁に手をついて、深く息を吐いた。
あの後──イルマの黒魔機人たちに城からたっぷり十キロは離れた森の中まで運ばれ、そこでようやく解放された彼は、空きっ腹を抱えたまま暗闇の中をとぼとぼ歩き、ようやくここまで帰ってきたのだ。
「くそ、どうして俺がこんな酷い目に……」
ロンは食堂での一件を思い出し、渋い顔で腕を組む。
「俺なりに精一杯慰めてやったのに、なんでイルマは怒ったんだ?」
女心をカケラも理解しない元勇者は、まったく反省の色なく不満をこぼす。
「うぅむ。女って生き物は、やはりわからん……」
この調子では、彼がふたたび少女たちの地雷を踏んで盛大に吹っ飛ぶ日もそう遠くはあるまい。
「ま、いいか。考えてもわからんことは考えないことにしよう。カレー、まだ残ってるかなあ……」
淡い期待を胸に城門をくぐったロンはふと、城内の広い中庭にひとつの人影を見つけて、立ち止まった。
「ん?」
月光を浴びて美しく輝く白銀の鎧と、その上で舞い踊る艶やかな真紅の長髪──。
「アラナ……」
マキシア王国の少女は、闇を睨みながら両手で握ったロングソードを流麗に、一心不乱に振り続ける。
袈裟斬り、横薙ぎ、突き……剣技の基本の型をひとつひとつ確かめるように、何度も何度も、同じ動きを素早く、精確に繰り返している。
すでに相当長い時間ここで鍛錬しているのだろう。
呼吸は荒く、剣を振るう度に白絹の肌から汗が飛び散っている。
「熱心だな」
背後から近づいたロンが声をかけると、
「……っ」
アラナはピタリと動きを止めて振り向き、彼の顔を真直ぐに見つめた。
「無事に戻られたのですね。何よりです」
「まあ、なんとかね」
ロンは、折れた小枝や木の葉がからまった頭をガシガシと掻いた。
アラナは、そんな彼を姿勢を正してじっと見つめる。
「夕食のカレー、とても美味しかったです」
「お褒めにあずかり光栄です」
ロンが気取って一礼すると、少女はふと視線を逸らして、すこし言いにくそうに口を開いた。
「ただ、その……わたしとオリガが夢中でおかわりしてしまい、オリガは先生の食べかけまで平らげてしまって……もうまったく残ってないのです。申し訳ありません」
面目なさそうに頭を下げたアラナをみて、ロンは顔の前でひらひらと手を振った。
「ああ、いや、気にしなくていいよ。べつに、そんなに腹減ってないし……。カレーなんて、またいつでも食べられるんだから」
「そうですか。そういってもらえて安心しました」
心底ほっとしたようにいうやや天然な少女をみて、ロンは思わず笑みを浮かべる。
「そろそろ、部屋に戻ったらどうだ? あんまり頑張りすぎると明日に響くぞ」
「ご心配には及びません。この鍛錬は日課で、むしろ今日はまだ足りないくらいです」
「そんなに汗だくなのに? 根性あるな……」
ロンが驚いていうと、アラナは恥ずかしそうに顔と首の汗を拭った。
しっとり濡れた首筋から胸当ての中の谷間へと汗が流れ落ちていくさまが、なんとも色っぽい。
「《剣聖》になるためには、このくらいの努力は当然です。わたしには、努力しかありませんから……」
「……どういう意味だ?」
ロンが眉を寄せると、少女は目を合わせずに答えた。
「人間のわたしには、獣人や魔族のような強靭な肉体も、魔女やエルフのような強大な魔力もありません。ですから、わたしが彼女たちに比肩する実力を得るには、彼女たちの何倍も努力するしかないのです」
「うーん……」
ロンは、片手で顎を撫でながら唸った。
「半分正解で半分間違い、ってところだな」
「間違い、ですか?」
アラナは、すこし不満そうな顔でロンを見る。
「うん。努力はもちろん必要だよ。でも、だからといって、闇雲に努力すれば強くなれる、というわけじゃない」
「……」
「個人の実力は、腕力や魔力の強さだけで決まるものじゃないさ。現に、俺も君と同じ人間だけど、獣人のオリガより強い」
「……ええ。先生には、身体能力の差を覆すほどの《技》がありますから」
「そう。技術や経験、読みの深さ……、個の強さを形成する要素は、じつに多様だ。それを理解して、己に真に必要なモノは何なのか見極めて努力しないと、君の求める強さは得られない」
「わたしに必要なもの……」
アラナは少し考え込むような素振りをみせたあと、ふたたび顔をあげた。
「何ですか、それは? 教えてください」
「俺にもまだわからないさ。君のことをほとんど何も知らないし」
「……」
「まあ、そんなに焦る必要はないよ。三年あるんだ。これからゆっくり時間をかけて、それを二人で見つけていこう」
ロンは微笑んでいいながら、顔の前で人差し指を立ててみせた。
「四六時中身体を鍛えるだけじゃなく、時には心を落ち着けて静かに己と語り合う時間を持つこと……これが、強さを求める君に贈る最初のアドバイスだ」
「……わかりました。ありがとうございます」
少女がやや曖昧な表情で答えると、ロンは頷いた。
「よし。じゃあ、今夜の鍛錬はここまで。明日に備えてもう休め。俺が課す修行は、たぶん君が考えてるより厳しいぞ?」
ニヤリと笑いながらいって、先に立って歩き出した時。
「あの……ひとつ、いいですか?」
アラナがその背中に向かって、ぎこちなく声をかけた。
「ん?」
肩越しに振り返ると、少女は表情を厳しくして、いった。
「先生は、どうして勇者であることをやめてしまったのですか?」