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その場所は──静かな静かな場所だった。
一面の空の青に、ほんの少しの薄く白くたなびく雲。
聞こえていたのは飛行船の出すエンジン音だけだったが──そいつも、程いい高度に達した今は、もう切ってある。
ミーシャや犬カバはこんな所でエンジンなんか切ったら途端に真っ逆さまに海に墜落しちまうと思った様だったが、実際にはそんな事にはならねぇ。
まぁ詳しく説明するとややこしいから省いちまうが、飛行船にゃあ空気より軽いガスを大量に詰め込んでて、そいつが『浮いていられる力』の源になってんだよな。
だからエンジンみてぇな『外からの力』ってぇのがなくったって、とにかく『浮いているだけ』の事は出来るんだよ。
風船にヘリウムってぇガスを詰めると他に何の力がなくったって空に浮かんでられるのと、理屈は同じだ。
エンジンを使うってぇのは、高度を上げたり下げたりする装置を動かす時や、速度を持たせて進みたい方向へ進ませるような、『推進力』が必要な時だけでいい。
だからまぁ、今みてぇにしばらくの間同じ高度で飛行船を空に漂わせとく分にはエンジンの力がいらねぇって訳だ。
エンジンを切った時にミーシャと犬カバがやたらに顔を青ざめさせたんでそーゆー事を二人に話してやったんだが、二人ともあんまりピンとは来てねぇみてぇだった。
そんでも、理屈は分からなくたってエンジンなしでも何の問題もなく飛行船は空に浮かんでるし、そーゆーモンなんだっていう理解はしてくれたみてぇだが。
初めのうちはおっかなびっくり、怖がって俺にしがみついてた二人だったが、今じゃあすっかり慣れたらしい。
ミーシャは感じ入った様子で静かに飛行船の端の手すりに両手を置いて、外の──まぁ、空しか見えやしねぇんだが──景色を眺めているし、犬カバに至っちゃあ俺の肩口んトコによじ登って気分良さそうに高い所から飛行船前方の空を見ている。
飛行船を飛ばしてからもう一時半は過ぎたはずだが、相変わらず気候は穏やかで、風もほとんどねぇ。
こんな事は本当に珍しい。
まるで神様か何かが『今日だけは』って特別サービスしてくれたみてぇだ。
けどまぁ、そろそろ洞窟に戻らねぇといけねぇ頃合いだよな。
俺はちょっと息をついて、未だ空の景色を眺めているミーシャへ「おーい」と一つ声をかける。
「──そろそろ戻ろうか」
名残惜しさはあったが、そんでもごくごく当然にそう声をかける──と。
ミーシャが俺の声に気がついてゆっくりと手すりから両手を離す。
その表情に──さっきまでは見つけられなかった微かな翳りを見つけた。
俺は──思わず目を瞬かせてミーシャを見る。
ミーシャはそっと悲しげに空の景色を眺めて──
「──……ええ」
と小さく返事する。
ついさっきまでは、そんな様子はなかったんだぜ?
ちょっと感動してるみてぇな、きれいだなぁって思ってる様な、そんな楽しげな目で空の景色を見てて。
なのに今は、何だか急速に気分が萎んじまった様に見える。
空の旅を終えたくねぇっていう感じにも見えたが──俺が『この空の旅を終えるのが名残惜しい』と思ってるその感覚とは、何だか少し違う様な──そんな感じがした。
俺は舵の前に立ったまま「ええ」と返事したミーシャの横顔を見つめて──そうしてちょっと肩をすくめる。
「キュ?」と俺の肩口で犬カバが鳴いた。
俺はエンジンキーに手を伸ばしながら、わざとミーシャの表情に気がつかねぇフリをして、
「──そんじゃあまぁ、」
と軽くのんびりと声を上げた。
「ちょっと遠回りして、もー少ししてから戻るか。
そんなに急いで帰らなきゃならねぇ理由もねぇしさ」
どーせ俺だって、このまま空の旅を終えるのはちょっと名残惜しいとは思ってたんだ。
だったらもうちょっとくらいのんびり空を回って楽しんでから帰ったってバチはあたらねぇだろ。
それにさ、せっかく空の旅に慣れて、一時は楽しそうにさえしていたミーシャを、こんな顔させたまま帰っちまう訳にはいかねぇじゃねぇか。
んな事を考えつつ、ゆっくりとエンジンキーを右に回しかけた──ところで。
とん、とその背に、何かが触れた。
ミーシャの額だ、と不意に気がついて──俺は思わずエンジンキーを回しかけた手を止めた。
ぎゅっとミーシャが両の手で俺の背の服を握る。
犬カバが──俺の肩口から後ろのミーシャを見下ろししてミーシャの様子を見てんのに気づいたが、俺は一ミリも動けなかった。
ミーシャが額を俺の背に当てたまま、言う。
「──リッシュ……。
私、このまま帰りたくない」
言う。
俺は──一ミリも動けないまま、ミーシャを振り返る事も返事をする事もできないまま、木偶の坊みてぇにただそこに突っ立っていた。
心臓だけが、何故か異様にバクバクと音を立てる。
背中から、ミーシャの温かさが伝わってくる。
パッと振り返ってミーシャの顔を見たいと思ったが……出来なかった。
ミーシャが辛そうに、言葉を続けたからだ。
「──このまま、どこか遠くへ逃げてしまわない?」
言ったのは、たった一言。
そのたった一言で──俺は、ミーシャが何で急に んな事を言い出したのか、どうして戻ろうかって言った途端に表情を曇らせたのか──何故だか直感的に感じた。
ミーシャの頭には、いつもサランディールの事がある。
飛行船を利用しようとしたサランディール王に呼び出されて──そんで結局は死ぬ羽目になっちまった、ダルクの姿がある。
いつもミーシャが辛い様な、悲しい様な顔をすんのは、そいつを考えてる時だ。
なんで今このタイミングで んな事を考えちまったのかは分からねぇが……。
俺が急に、何の前触れもなく飛行船に乗せてやるって言い出したんで何かを勘づいたのかもしれなかった。
俺が、レイジスに協力しようとしている事。
サランディール奪還の為に、この飛行船を使おうと考えてる事。
もしもそうとなった時、次にまたいつこんな風にミーシャや犬カバを飛行船に乗せてやれるか分からないと俺が考えた事……。
そんな事にミーシャは勘づいちまったんじゃ……なんて思っちまうのは俺の考えすぎか……?
俺はゆっくりと深く息を吐いて……目線を下げて、目の前の舵を見つめる。
そーしてちょっとしてから……
「昨日、さ」
とそっと口を開く。
「──……ゴルドーからダルクの家の鍵を受け取った、あの後。
ミーシャと犬カバでちょっと席を外してくれただろ?
……あん時俺、ゴルドーの野郎から言われた事があるんだ」
独白する様に、言う。
ミーシャからの反応はなかったが……それでも一向に構わねぇ。
俺は静かに、先を続ける。
「……ダルクん家に詰められた知識や、この飛行船は、俺が正しいと思う事のために使えって。
他の誰の意見も、ダルクの遺志も関係ねぇ。
てめぇの頭で考えて、てめぇがちゃんと決断しろ……って。
──今の俺にとっての『正しい事』は、ミーシャや犬カバがちゃんと心から笑って穏やかに暮らしていける……そこに繋げられる事の、全てだ。だから、ミーシャがどうしてもこのまま帰りたくなくって、どこか遠くへ逃げちまいてぇと思うんなら……そうしてやりてぇとも、思う」
「……うん、」
ミーシャが弱々しく返事をする。
俺は静かに言葉を続けた。
「──……けど、それで本当にミーシャは心から笑える様になるのか?
ミーシャがこのまま逃げちまいたいと思ってるモンから、本当に解放されんのか……?
俺は……そうじゃねぇんじゃねぇかと思う」
例えここでこのままどっかへ本当に旅に出て……こっから逃げ出しても、ミーシャはいつまでも苦しい思いをするハメになるんじゃねぇか?