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ミーシャは開けた戸に手をかけたまま部屋の戸口に立ち尽くし、一人静かにその部屋の中を見つめていた。
床一杯に散乱した、紙や書籍の山。
閉じられたカーテン越しに柔らかに差し込む陽の光。
ダルク・カルトの書斎は、側から見ればこんなにも雑然としているのに、どこか温かく静謐な雰囲気に満ちていた。
リッシュに言えばそんなに大した部屋じゃねぇだろ、と一笑に付されてしまいそうだが……ミーシャはこの部屋が神聖な場所であるかのように感じていた。
そっと──その場に膝をついてしゃがみ込み、部屋の中を見つめる。
犬カバが見たら「クヒッ?」と驚かせてしまっただろうが、幸い当の犬カバはリッシュとリュートについていけなくていじけてそのままリビングの椅子の上に丸まって眠ってしまっていた。
ミーシャはそっと息をついて、部屋の中を見渡した。
「……ダルクさん……」
どこか辛い気持ちでその名を呼ぶ。
ダルク・カルトの事を想う時、いつも温かい気持ちになるのと同時、ミーシャは辛く切ない気持ちになる。
つい先日ゴルドーと飛行船の鍵を手に入れにあの地下通路を通ってからは──……ダルク・カルトの遺骸の前に再び立ってからは、尚更だった。
彼が亡くなったのはもう十二年も前の事なのに、当の本人は未だにここに帰って来れない。
以前リッシュと共に参ったお墓の中も、いつまでも空のままだ。
『ダルクにゃ悪いが、こいつはこのまま置いていく』
なんの感情も置かずに言ったゴルドーの言葉が、悲しかった。
ミーシャがあの通路を通って亡命した一年前も、今も。
ダルクの元へ誰かが来た形跡もなかったのに、死したダルクをそのまま捨て置くしかなかった理由。
リッシュがダルクを思い出す時──……地下通路に入った時、あれほどまでに顔を青ざめさせていた理由。
『この事はリッシュには言うな。
人には、忘れてた方がいい事もある』
ゴルドーから当時の話を聞いた時──ゴルドーがそう言ったのも、もっともだと思った。
わざわざ辛い当時の事など、思い出す必要もない。
ダルク・カルトとこの場所で過ごした、いい思い出だけ──。
それだけが思い出せたのなら、それで十分だろう。
それは実際にこの家を──この書斎を見たリッシュの懐かしそうな優しい横顔を見ていれば、一目瞭然だ。
──ごめんなさい。
と、ミーシャは心の中で今は亡きダルクに謝る。
貴方を、あんなに暗く寂しい地下通路なんかに置き去りにして。
貴方を死に追いやったサランディール王の娘が、リッシュのそばにいて。
きっとどんなにか、リッシュの成長を見守りたかっただろう。
飛行船に乗って、大空を駆け巡りたかっただろう。
ダルク・カルトからそれら全てを永遠に奪い去ったのは──他ならぬサランディール王であり、サランディールという“国“だった。
なのに。
それから十二年も経った今、リッシュの周りにまた“サランディール“の影が蠢き始めている。
サランディール奪還を果たそうとしているレイジスと、騎士のジュード。
ジュードはきっと、レイジスに飛行船の事を報告しているだろう。
レイジスはミーシャやリッシュの身の安全を脅かすつもりはないと言ったが、考えれば考えるほど、どこまで信じられた話かどうか分からない。
──リッシュを、サランディールの揉め事に巻き込みたくない……。
ずっとそう考えているが、だからといってどうすればいいのか、その具体案は今もまだ出ないままだった。
兄、レイジスにリッシュを巻き込まないでと言う事は出来る。
リッシュの飛行船はそんな事の為に作られたものじゃない。
お願いだからサランディール奪還の為の手札にしようなどとは考えないで、と。
だがそう訴えたところで、それが却ってヤブヘビになってしまうのではないかと思えて仕方なかった。
ミーシャがそんな風に言ってくると言う事は、『飛行船はサランディール奪還の手札になり得る』とミーシャは考えているのだ……と。
実際問題、レイジスがミーシャの前でリッシュの飛行船について話をした事はない。
もし万が一──そんな事があり得るのかどうかは分からないが──ジュードがレイジスに飛行船の話をしていなければ、ミーシャの『お願い』は完全なヤブヘビになる。
ではジュードの方に、ジュードがレイジスに飛行船の話をしたかどうか聞き出し、まだなら口止めをし、してしまっているのならあの飛行船はとてもサランディール奪還の切り札にはならないと言って欲しいと訴えても……。
おそらくジュードは、その訴えを聞き入れてはくれないだろう。
ジュードの主は長兄、アルフォンソだったが、そのアルフォンソが身罷ってしまったのだから今はレイジスに仕えている様なものだろう。
主の──ひいてはサランディール奪還にあたって大きな利になり得るこの情報を、ミーシャの頼みがあったからと心の内に飲んでくれる様な男ではない。
レイジスも、ジュードもダメ。
それならもう、リッシュに訴える事しか、ミーシャに出来る事などないのではないか?
『もしもレイジスやジュードに、サランディール奪還の為に手を貸して欲しいと言われても、絶対に引き受けたりしないで。
サランディールの為に、以前のダルクさんの様にあなたを失うなんて嫌なの』
……と。
そう考えながらも……ミーシャはそれに 分かった、と言ってくれるリッシュの姿を、想像する事が出来なかった。
こんな事なら、飛行船の鍵など持ち帰らない方が、まだ良かったのかもしれない。
ぼんやりと気うつのまま、ダルク・カルトの書斎を見つめる。
そこに答えなどないと、分かってはいたのだけれど。
しばらくの間、その場に膝をついたまましゃがみ込み、ぼんやりとその部屋を見つめてから──……ミーシャはようやくそっと、膝を上げてその部屋を後にした。
パタン、と静かにその部屋の戸を閉め──ふいに浮かんでいた自身の涙に気づいて、そっと人差し指でそれを拭った──ところで。
リビングの椅子の上に丸まったまま眠り込んでいた犬カバがピクリと体を動かし──パッとその場で起き上がる。
そうして急に玄関口の方へ顔と体を向けた。
「?」
疑問に思いつつ……思わずきょとんとしてその姿を見つめていると。
キィッと小さな音を立てて──犬カバの視線の先にある玄関口の戸がゆっくりと内側に開く。
その戸の、外側のドアノブにかかった小さな手を見て、ミーシャは自然と柔らかく微笑んだ。
「ダルー、犬カバー、ただいまー!」
あどけない声が届く。
犬カバがパタパタッと尻尾を振り、椅子から素早く降り立って戸口に向かう。
と──戸を開けた人物──リュートがうれしそうに顔を綻ばせる。
そこに、
「おっ、なんだよ、犬カバ。
出迎えか?」
なんとなくどこか嬉しそうに(……なんて言うと本人はものすごく否定しそうだが)リュートのすぐ横に立っていたリッシュが犬カバへ向かってそう声をかけた。
ミーシャは──ふとリッシュのズボンの方を見る。
リュートが今日の間中ずっと握っていたリッシュのズボンだったが、その手は相変わらずリッシュのズボンをしっかりと掴んで離さないままだ。
ミーシャの目線に気づいたのだろうか、リッシュが他にそれと分からない程度にちょっとだけ肩をすくめてみせる。
ダメだった、と暗に示しているが、どことなく『全然ダメだった』と言う雰囲気ではない。
多少なりともなにがしかの進展でもあったのかもしれない。
考えつつも……ミーシャはそっとリュートへ視線を戻し、ふんわりと微笑んでリュートへ「おかえり」とダルの時の口調で返す。
「──とっておきの場所はどうだった?」
聞くとリュートが興奮気味に「キレーだった!」と感想を聞かせてくれる。
その声も、表情もうれしそうだ。
どうやらいい時間を過ごせた事は間違いないらしい。




