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言う。
男は落ち窪んだ目の中に異様な光を宿したまま、ただただ無言で俺を──俺と犬カバだけを見る。
どーやらその視界に、ミーシャの事はこれっぽっちも入っちゃいなさそうだ。
ミーシャがスッと静かに、僅かずつ俺から離れ、後ずさる。
一歩、二歩。
男は気付かねぇ。
月の光が丁度雲に隠れ、辺りが一段暗くなったのを狙って──ミーシャはすっとその闇に紛れる様に姿を消した。
一瞬、その動きがバレやしねぇかと緊張したが、やっぱり向こうはミーシャの動きなんざ見ちゃいなかった。
その視線の先にあるのは俺の腕の中にある犬カバだけ──。
それだけだった。
男がよろめきながら俺の方へ一歩足を動かす。
すでにリュートの方への意識がお留守だ。
……フツーなら、犬カバとリュートの身柄を引き換えるんだから、ここでリュートから目を離すのは誘拐犯としてはあり得ねぇ。
今ミーシャと俺がしようとしてるみてぇに、もし万が一リュートの身の安全が確保されたら俺が犬カバを男に渡さなきゃならねぇ理由はなくなる。
そーなりゃ後は周りに控えた冒険者共に問答無用で取り押さえられて捕まるだけだ。
一番の目的である犬カバだって得られねぇ。
んな事は考えるまでもなく分かりきった事なのに、男にはそれが分からねぇ。
いや、たったそれだけの事を考える力すら、たぶん男には残されちゃいねぇんだろう。
──ただ、執念だけ。
それだけで男は命を存えている。
俺は我知らず苦い顔で男を見つめた。
何だか、気の毒に思えちまったからだ。
犬カバを求めていたのは病に冒された娘を救う為だった。
なのに──その娘はもう亡くなっちまってるのに、こんなになってまでまだ犬カバを追い求めて、自分の命を削っている。
もう何の意味も持たねぇのに人質を取り、わざわざギルドを通して俺たちを呼び寄せて……もしこれで犬カバを得たって、その後は一体どうするつもりだよ?
もう冒険者達を振り切り逃げる余裕すらあんたには残されちゃいねぇじゃねぇか。
そう、思いながらも……俺は覚悟を決めて男を真っ向から見据える。
──どっちにしろ、犬カバを渡してやる訳にはいかねぇ。
もちろんリュートも、助け出させてもらう。
だから──今の俺に出来る事は、ただ一つしかねぇ。
男の意識をリュートやミーシャから離させたままこっちに向けて、時間を稼ぐ。
それだけだ。
そう考えながら、俺は慎重に言葉を選んで男に話しかける。
「──見世物屋さんから、事情は聞いています。
ノワール国では『聖獣』の血を飲めば不老不死の力を得る事が出来るという伝承があるそうですね。
そしてあなたは伝承が真実であると信じ、この子が──犬カバちゃんがその聖獣であると考えている──……。
そうでしょう?」
やんわりと、静かに問いかける。
丘の下に控えてる冒険者達にゃあ、俺の声はまず聞こえねぇだろう。
別に聞こえたって構いやしねぇが、後で事情を聞かれんのも面倒だ。
そういう思いもあっての静かな問いかけに、男は何にも反応しねぇ。
俺は少しの間 男からの答えなり反応なりを期待して待ってみたが、結局そのどっちも、返ってくる事はなかった。
仕方なしに、ゆっくりと先を続ける。
「──娘さんの事も存じ上げています。
重いご病気だったそうですね。
お気の毒に、すでに亡くなられてしまった、と聞きました。
だけど、それなのにどうしてあなたは今も聖獣を追い求められるのでしょう?
例えこの子が本当に聖獣で、その血にそんな力があったのだとしても、亡くなってしまわれたものはもうどうしようも……」
言いかけた俺の言葉に。
「──娘は、」
男が一言、唇を震わせながら口にする。
聞き取りにくい、かなりザラついた声だ。
俺は思わず片眉を少し上げて男の次の言葉に耳を傾けた。
「娘は、死んでなど、いない……。
今は眠りについている……だけだ」
言う。
俺は男を刺激しないようにやんわりと静かな口調を崩さず問う。
「──眠りについているだけ、というのはどういう意味でしょう?
亡くなられた、という訳ではなかったんですか?」
問いかけながら──俺は決して男の顔から目を動かさねぇ様注意しつつ、男のすぐ後方で木に縛りつけられたままのリュートの姿を目の端に見る。
その裏手に、小柄で華奢な人影が一つ……いや、もう一つあった。
華奢な人影に音もなく近づき、役目を交代したかの様にもう一つの人影の方がリュートの裏手に近づいてゆく……。
……ありゃ、もしかしてジュードか?
背格好がいかにもそんな風だ。
思わずそっちに気を取られそうになるのをグッと堪えて、俺は再び目の前の男に集中する。
男はそんな俺の内心には全く気づいちゃいねぇみてぇだった。
震える様な声の中に強い感情を持って答えてくる。
「〜死んでなど……いない……。
娘の体も……きちんと取ってある。
いつ蘇ってもいいように、ちゃんと保存して……」
充血した目で、強くそう答えてくる。
俺は思わず苦い顔でそんな男を見返した。
『保存』なんて言葉も、『蘇る』なんて言葉も、普通、生きてる人間には使わねぇ。
……男だって、娘が死んじまってんだって事くらいは、本当は分かってんだろう。
だけど、決してそうとは認められねぇ。
『今はただ眠っているだけ』
犬カバの血を飲ませれば、その血の力があれば、娘はちゃんと目を覚ます。
だから『不老不死』の力が必要なんだと。
ただそれだけを信じて──男はここまで来たんだろう。
もし娘が死んだと認めたら、老いず死なないだけの不老不死の力じゃ、どうにもならねぇかもしんねぇ。
そいつを受け入れる訳には、いかなかったんだろう。
──どうしても。
ザク、と男が俺の方へ一歩歩み寄る。
その表情にはそこ知れねぇ狂気が見えた。
「〜聖獣さえいれば……その血があれば、娘は蘇る事が出来る……。
その血があれば……」
ザクッ、ザクッと、最後の力を振り絞る様に、男が俺の方に向かって足を踏み出す。
骨に皮を張っただけみてぇな骸骨の様な手が俺の方へ──俺の手の中の犬カバの方へ伸ばされる。
わなわなと震える手。
俺は思わず一歩、二歩と後退した。
目の端でリュートの方を確認すると、リュートが縛りつけられた木の丁度真後ろにジュードが──今度はハッキリその姿が見えた──スタンバイすんのが見えた。
あと、少し。
もう少し男をリュートから引き剥がさなきゃならねぇ。
目を激しく血走らせながら、男が俺に向かう足を徐々に速めてくる。
夜闇の中、薄い月明かりの元で骸骨みてぇなナリをした亡者が俺の方へ向かってくる……。
まるでホラーだ。
俺はどんどん後退する。
ようやく男が、いい距離までリュートから離れてくれた。
ジュードがリュートの前に来て、縄を解きにかかる。
ほんの数秒で縄は解け、ジュードはリュートをサッと抱き上げてそのまま俺の方へ一瞥を向ける。
もういいぞ、と目が言ってるみてぇだったが、俺は目だけでそいつに返した。
さっさとリュートを安全な所まで連れてってやってくれ。
眼中に入ってないとはいえ、男にバレたらどうなるか分からねぇ。
そういうつもりで見返すと、ジュードが小さく頷いてそのまま踵を返して向こう側に──ミーシャが待つ側に、丘を降りていく。
そいつに──ほんの若干、気を取られ過ぎたらしい。
ゴツッと俺の靴の踵部分が、地面から張り出した小さな石にヘンな風に引っかかった。
うっわ、ヤベッ!
ドジった!!
思う間もなくドサッとそのまま地面に尻餅つく。
俺の腕の中で犬カバが「キュッ!」と体を縮こめた。
「〜聖獣を寄越せぇぇ!!」
男が狂気の表情で俺の腕の中の犬カバへ手を伸ばす。
俺は目を大きく見開いてその手のひらを見、犬カバをギュッと抱いて男から遠ざける。
本当なら──本当なら逆に、犬カバを男の方へ掲げ持って、必殺技の屁をブッこいてもらわなきゃならねぇ。
そう分かっちゃいても、そいつはどうしても出来なかった。
この狂気の男の目の前に犬カバを突き出す事だけは、どうしても。
俺は荒く息をする。
たぶん──そいつはほんの数秒間の出来事だっただろう。
男の手のひらが、俺のすぐ目の前まで迫る。