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「『リュートという子供の命は預かった。
無事返してほしくばリアとダルクが飼っている“黒毛の犬”を連れて来い。
子供はその犬と引き換えにする』──と」
じーさんの言葉に……俺は頭から下にザァーッと血の気が引いていくのを感じた。
「なっ……」
何だよ、それ……。
一体、どーゆう事だよ?
何でリュートが人質に……?
言葉も出せねぇ俺に代わって……って訳でもねぇんだろうが、ミーシャが心配混じりの真剣な声で口を開く。
「……引き換えの場所や日時の指定は、あったんですか?」
表面上は冷静を装ったミーシャの声が、ほんのわずかに震えている。
じーさんが頷いた。
「本日の夜九時。
場所はこの屋敷から五分ほど歩いていった場所にある、『落雷の一本木』の下、という事です」
『落雷の一本木』っつーと、この辺りじゃわりかし有名な木だ。
元は樹齢何百年っつー大層な木だったらしいが、数十年前大きな雷が落ちて木の幹を真っ二つに引き裂いた。
ところがそっから何十年もかけて、割れた幹の根元から新芽が出て、そいつが新たな幹になって成長した。
この辺じゃ御神木とか奇跡の木みてぇな呼び名まである細木だ。
普段なら、まぁスゲー木だよな、くらいの事しか思わねぇが……向こうがわざわざこの木の下を指定してきたのは、何だかどーも嫌な気がして仕方なかった。
落雷の一本木、奇跡の木、御神木。
この木にゃあいくつかの呼び名があるんだが、そのうちの一つに『再生の木』っつーのがある。
元々生えてた木は死んじまったが、そのおかげで新たな芽が出て、生き生きと再び成長する──……。
向こうはそんな気なかったのかもしんねぇが、まるで犬カバの命を削って娘の命を再生させようとしてるっつーノワール貴族の旦那の意思を、願いを、そこに反映させてきたみてぇだ。
……もちろんリュートを拐ったのは、ノワール貴族の旦那に違いねぇ。
でなきゃ一体どこの誰が、こーんなおかしな犬を人質との交渉に使うってんだ?
犬カバを『リアとダルクが飼っている黒毛の犬』って断定してくんのも、リュートを拐えば、(しかも俺らを名指しまですりゃあ)必ず俺らは動くって読んだ事も……どーにもこの上なく、俺を嫌な気分にさせる。
考えながら俺は廊下の壁に掛けられた時計を見やる。
指定の九時まではまだ半刻と少しある。
俺は深く息を吐いて、そのまま口を開く。
「俺が──……リアに変装して、一人で行ってカタをつけてくる」
「リッシュ、」
「リッシュくん、」
ミーシャと同時に執事のじーさんが声をかけてくるが、俺はそいつに首を横に振って続ける。
「〜もちろん犬カバは渡さねぇ。
俺は、見た目にはか弱くて可愛い女の子姿だが、そのまんま見た目通りにか弱い訳じゃねぇ。
隙を突いてリュートを逃して、助けてやる事くらいは出来る。
……どのみちどっかでケリをつけとかなきゃならねぇ相手だ。
リュートを助けてそのまま犯人のノワール貴族を捕まえて、誘拐罪でギルドへしょっ引いてやる」
そう宣言して──俺は足元の犬カバをサッと抱っこして自室に引っ込み、早速『リア』の準備をする事にした。
椅子の上にちょこんと乗せてやった犬カバが、不安そうに俺を見てくるのが鏡越しに分かる。
と──ほんのちょっとの間を置いて、そっと部屋の戸が開いた。
──ミーシャだ。
ミーシャはじっと冷静な目で俺を見、少しの間を置いて口を開く。
「──……一人で行くのは危険よ。
向こうはリュートを人質にとっている。
隙を突いてリュートを助ける、とあなたは言ったけれど、そこに絶対の安全はあるの?
危うくすればリュートの命を危険に晒す事になるけれど」
その冷静な口調はまるで『ダル』の時みてぇだ。
俺は思わずバッとミーシャを振り返る。
「〜じゃあどうすりゃいいってんだよ?」
時間がねぇ。
もちろんリュートの安全は第一だが、犬カバだって引き渡せねぇ。
どうにかしねぇと、いけねぇんだ。
焦る俺に気づいてるんだろう、ミーシャが言う。
「──……ついこの間、あなたが山賊に拐われた時の事を、覚えている?」
静かな口調で──たぶん、わざと声のトーンを落としながらミーシャが問うのに、俺は「あぁ?」と思わず声を荒げた。
ミーシャはそれに臆することなく続ける。
「あなたが拐われた時、私は何も考えず山賊達が指定した場所へ向かったの。
今のあなたと同じように」
真っ直ぐに俺を見るすみれ色の目が、真剣だ。
俺は一瞬あん時の事を思い出して……思わず小さく唸る。
ミーシャは言う。
「あの時は偶然にもジュードがついて来てくれて、助けてくれたからあなたをどうにか救うことが出来た。
だけど、あの後何度か考えたの。
もしあの時ジュードと出会わず、私について来てくれる事がなかったら。
もしラビーンやクアンが、ギルドにあなたが拐われた事を知らせに行ってくれなかったら。
大した力もなく、策すらなかった私は、あなたの命も、私自身の命も亡くしていたかもしれないって。
今のあなたはその時の私と同じ事をしようとしている。
それではダメよ」
バッサリとミーシャが俺の焦りを一刀両断にする。
俺は思わず反論の声を上げかけたんだが──ミーシャの言葉が、俺の言を遮った。
「──シエナさんがこちらに連絡を寄越して下さったのは、『あなた一人でリュートを助ける様要請したかった』からではないはずよ。
そうでしょう?
犯人からの手紙はギルドに届いた。
シエナさんはもちろん、ギルドにいた冒険者達は皆この事を知ったはず。
それなのに何の手筈も整えなかったはずはないわ」
きっぱりとミーシャが言うのに──ミーシャの後ろにいて俺を見ていた執事のじーさんが そうです、とばかりに頷いた。
「今、冒険者の面々を集め、救出の手筈を整えていらっしゃるそうです。
犯人との交渉は、冒険者の方が。
犬カバくんの代わりに、黒犬も用意されています。
万全を期して事に当たるが、もしもを考えて、『リアさん』にはいつでも出られる準備をしておいて欲しい、と。
そういうお話でございました」
じーさんが言うのに……俺はじーさんとミーシャを見て、
「……ああ、」
よーやくちょっと冷静になって、そう返す。
戸の向こう側でフン、とヘイデンが鼻を鳴らすのが聞こえた。
「頭に血が上りすぎだ」
こっちに顔を見せるでもなく、そう声だけを発してくるのに……俺はちょっと恥じ入りつつも視線を誰からも逸らして横へやる。
悔しいが、ヘイデンの言う通りだ。
ミーシャの方が俺よりずっと冷静に物事を見てる。
『リュートが拐われた』
そう聞いただけでカッと来ちまって、そのまま無鉄砲に行動しようとしちまってた。
気まずく目を逸らした俺にミーシャはほんのちょっと微笑んで見せた。
そうして「でも、」とやんわりとした口調で続けた。
「気持ちは分かる」
そう、言ってくれる。
俺はその言葉でミーシャの方へ視線を戻し──……改めて、こほんと一つ咳払いする。
そーして今度は、ちょっと冷静になってぐるりを見渡した。
「──……。
『リア』の準備、だな。
分かった。
……けど……一つ気になる事があんだけどよ、」
じーさんはさっき黒い犬を用意してるし、犯人との交渉も冒険者がしてくれるっつってたが、もっと交渉に適任なのは実は『リア』なんじゃねぇのか。
『リア』が黒い犬を持ってればこそ犯人──ノワール貴族だって話に応じる気になるだろうし、油断もする。
もし万が一にも……んな事は絶対ぇにあっちゃならねぇが……向こうが力に訴えてリュートや俺をどうこうしようって気になったとしても、俺の見た目は可愛い女の子だ。
初めから男だと思ってかかってこられるより、ほんのわずかでも力に甘さが出る事は想像出来る。
俺はまだ武術の腕は過信するなって言われてるよーなレベルだがリュートを向こうから引き離して逃してやるほんの一瞬、それくらいならどうにかやってやれる。
その一瞬さえ上手くやれりゃあ、後は周りに待機してくれてるだろうギルドの冒険者達がきっと俺とリュートを助けてくれる。