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◆◆◆◆◆
それから数時間と経たない、その日の午後早く──。
ゴルドーはカジノを立ち去ったその足である一つの場所へ向かっていた。
周りの誰にもその行き先を告げず、また誰にも悟られない様細心の注意を払って。
その頭の中にあったのは、十二年前のあの日のことだ。
まだ幼かったリッシュを追ってサランディール城に続く地下通路を通り、その先で見た光景。
大量の血を流し、壁に背を持たせかけ、座り込んだまま死んでしまったダルクと、そこに縋り付いて「死んじゃやだ!」と泣いて駄々を捏ねるリッシュの姿──。
それは、ゴルドーにとっても悪夢でしかなかった。
芯が凍える様な、息が詰まる様な、そんな感覚。
──あれからもう十二年か。
そう、十二年だ。
もう十二年も前の出来事なのに、ゴルドーの頭の中には未だ鮮明に、あの日の事が刻まれている。
おそらくまだリッシュが思い出せていない、その後の出来事も──。
考えかけて、ゴルドーはブンッと頭を横に振る。
──俺らしくもねぇ。
感傷に浸ってる場合じゃねぇだろーが。
そう、自分に叱咤して、ゴルドーはようやくその屋敷の前に辿り着いた。
この頃はすっかり足が遠のいてしまっていた、古い友人の屋敷だ。
ゴルドーが屋敷の玄関口の方へ一歩足を踏み出すと、
「ゴルドー様、お待ちしておりました」
見慣れた執事の老人がゴルドーに礼をし、中へ入れる。
中へ入ってすぐの所には、この屋敷の主人、ヘイデン・ハントと黒髪の少年とも見える少女、そしてその足元でゴルドーの姿を一目見て、
「キュヒッ!?」
と大層に驚いて少女の後ろに隠れた、犬ともカバともつかない黒毛の犬が一匹。
ゴルドーはその犬を見て思う。
んなのが聖獣とは。
もし本当なら世も末だな。
と──少女が一歩こちらへ足を踏み出した。
「あの……ゴルドーさん、」
少し遠慮がちに、けれどどういう訳か臆している様子はなく、少女が声をかけてくる。
ゴルドーは思わず少女の顔を見た。
短く切った黒髪に、白い肌。
一見すると品のある美少年といった雰囲気だ。
ゴルドー自身も、彼女とはほんの少し顔を合わせた事がある程度だが、何の疑いもなくそう思っていた。
彼女が本当は男装の麗人で、しかもあのサランディールの元王女なのだとヘイデンから聞くまでは。
ヘイデンはここ数ヶ月の自分が知り得る話の全てをゴルドーに電話で語って聞かせたのだったが……そのほとんどはゴルドーには予想もつかないような驚くべき内容ばかりだった。
一国の王女に、聖獣と呼ばれノワールに追われている(らしい)犬。
リッシュはとことん変わった者と縁があるようだ。
何にしろゴルドーは、言葉を発した少女に向けてパタパタと面倒くさげに手を振り、言う。
「堅苦しい挨拶は抜きだ。
リッシュの野郎はうちのカジノで泊まり込みの裏方仕事をさせる事にした。
有能な見張りをつけたからこっちに来る事はねぇ。
さっさと地下通路を通ってダルクの飛行船の鍵を取りに行くぞ」
言うと、少女の裏に隠れていた犬が「クヒッ?!」とまた驚いた様に声を上げる。
あんまり驚いたせいか隠れる事を忘れすっかりゴルドーから丸見えの位置にいる。
ゴルドーがギロリと一睨みくれてやると一瞬でまた少女の後ろに隠れたが。
それでも、犬なりに話が気になるのだろう、少女の顔を見上げ、
「クヒ?クヒヒ?」
となんだかよく分からない言葉で問いかけている。
少女がそれに「ごめんね」と犬へ返した。
「飛行船の鍵の在り処が分かったの。
ゴルドーさんと、今から取りに行ってくるわ。
あなたは危ないからヘイデンさんとここでお留守番していてね」
「キュヒッ!?
キュッキュー!!」
ビョーンと一つ跳ね上がり、そのまま何かを訴えかける様に犬がキューキューと少女に語りかける。
その首根っこを。
ヘイデンがひょいと持ち上げた。
「──何も問題はない。
ほんの四、五日の事だ。
大人しくしているように」
言う。
犬が 嫌だ嫌だとでも言う様にヘイデンにつままれたまま体をバタバタさせたの──だが。
「おい、てめぇ、犬!大人しくしやがれ!!
それ以上騒ぐなら丸焼きにして食っちまうぞ!!」
ゴルドーが一声がなり立ててやると、嘘の様にぴたりと犬が止まった。
どうやらゴルドーの説得(?)に応じたらしい。
「よし。
それじゃあ出発だ。
嬢ちゃん、準備はいいか?」
問いかけると少女がまっすぐにゴルドーを見上げて、「はい」と潔のいい返事を寄越したのだった──……。
◆◆◆◆◆
「キュー……」
犬カバは、一人ぽつねんと部屋の中に留まったまま、途方に暮れてその場所に座り込んでいた。
リッシュと犬カバに当てがわれた例の部屋で、犬カバにとってとても居心地のいいクッションはすぐ目の前にある。
普段なら真っ先にそこに座ってくるんと丸まりゆったりするのだが、今はそういう気持ちになれないのだった。
ミーシャとゴルドーはもうすでにこの屋敷を出て、おそらくは地下通路への道を辿ってしまっている。
聞けばミーシャが探しに行くと言った飛行船の鍵は、今はもう骸骨になってしまったというダルク・カルトの懐にあるのだそうだ。
犬カバの頭はそんなに大きくはないけれど、それでもミーシャがそこに向かうのは危険だという事は分かるし、それに何より つい先日リッシュと交わした約束も覚えている。
『──……俺がいねぇ間、ミーシャの事を見といてやってほしいって事なんだ。
ヘイデンとミーシャで今してる話……何を話してんだか見当つかねぇけど、何かあるって俺は睨んでる。
危ねぇ事じゃなきゃ何でもいいが、どーもそういう気がしねぇ。
だから──……ミーシャとヘイデンの動向、さり気なく探ってくんねぇかな?』
任せておけとバッチリ請け負ったのは良かったが──
「クヒー……」
犬カバの頭に、続けて先程ヘイデンから言われたばかりの言葉が蘇る。
『──さすがに丸焼きにはしないが。
リッシュにミーシャ殿の事を伝えに行くつもりなら、お前を犬用の檻に閉じ込める。
無論飯も抜きだ。
だが、そうはせず大人しくこの屋敷で二人の帰りを待つなら、その間うまい飯とおやつを毎食用意してやろう』
ゴルドーの脅しもさることながら、ヘイデンにまでそう言われてしまっては──しかもご褒美はうまい食事とおやつだ!──どうにも簡単に逆らう事が出来ないのだった。
犬カバはそわそわと立ち上がり、部屋の戸の前をうろうろする。
美味しいご飯とおやつの為にリッシュとの約束を反故にするのか?
それとも危険を犯してでもこの屋敷を抜け出し、リッシュにミーシャがサランディール城地下通路のダルク・カルトの元に行った事を伝えに行くのか。
激しく悩みながら戸口の前を行ったり来たりする事しばし──。
「──クヒ」
一つ、覚悟を決めて犬カバは頷く。
そうしてビョーンと戸のノブまで飛び上がり、両前足を器用に使って戸を開き、スチャッと床に着地する。
ほんの少しだけ開いた戸口から廊下の左右を素早く見渡し、誰もいない事を確認して素早く廊下の向こうまで移動する。
角を一つ曲がって、屋敷の玄関まであとほんの数十メートル、というところで。
せせこましく動かしていた足が四本、ふわふわと宙に浮く。
しかもそのまま前に進めない。
「クヒッ?」
おかしく思って首を斜め上に曲げ後ろを見る──と。
そこには目を閉じたまま眉を寄せ、『まったく』とばかりに息を吐くヘイデンの姿があった。
『リッシュにミーシャ殿の事を伝えに行くつもりなら、お前を犬用の檻に閉じ込める。
無論飯も抜きだ』
『無論飯も抜きだ』
ヘイデンの言葉がリピートされて、犬カバの頭に響き渡る。
捕まってしまった衝撃と、先程下されたヘイデンの宣言に思わず四本の足をピーンと伸ばしたまま固まる。
──ヘイデンは情け容赦なくそんな犬カバに声をかけてきた。
「──言っておいたはずだな。
ここを出ようとしたら檻に入れた上に食事抜きだと」
その声音には、かわいい犬に対するものとは思えないほど厳しいものが混ざっている。
固まったまま全く動けなくなってしまった犬カバにもう一度深い息を吐き──ヘイデンは言う。