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望み薄なのは百も承知で言いかけた俺に、
「──ならないと思うわ」
ミーシャがあっさりと否定する。
そうして深く息をついた。
「その毛並みの事は、明日には分かってしまう事だから、もう店主さんにお伝えしてあるの。
古い毛染めを使ってしまったから簡単には色を落とせないだろうという事も。
それでも、月日が経てば問題なく元のピンクに戻るから大丈夫だと言ってくださったし、店主さんに了承を得ないまま勝手に犬カバの毛を染めてしまったことも、『犬カバが万一人目に触れても誤魔化せるように』っていう配慮でやった事だろうから、私たちを咎め立てるつもりもないと言って下さっている。
それに何より……店主さんは、本当に犬カバの事を可愛がっておられるのよ。
見世物としてだけじゃなくて……ちゃんとかわいい動物として」
きちんと俺の目を見ながら、ミーシャが諭す様に言う。
ここまで言われちゃあ……俺にはもう、何にも言える事がねぇじゃねぇか。
目の前に、こんなに落ち込んで、力も抜け切っちまってる犬カバがいるのに。
俺は犬カバを持ち上げたまま、元気を失くした犬カバを見下ろす──と、ミーシャがもう一つ静かに息をついた。
「だけどまだ──明日の朝まで時間はあるのだから……。
今日はいい思い出になる様楽しんで、明日きちんとお別れを言いましょう」
冷静に……たぶん、依頼を受けたギルドの冒険者としては百点満点の答えで、ミーシャが言う。
それでもその声がほんのちょっとだけいつもより気落ちしてるみてぇに感じたのは俺の気のせいなのか──。
俺はミーシャの答えに──……どうとも言う事が出来ずに、ただダレた犬カバを見続けたのだった──。
◆◆◆◆◆
その日の夜──
俺は救護室の自室のベッドの上にごろんと横になったまま、暗い天井を目を細めて見つめていた。
俺の頭のすぐ横には犬カバが、いつも通りに丸まっている。
普段ならベッドの上に乗っかってすぐにヘンないびきをかいて寝入っちまう犬カバだが……今日はそのいびきもまだ聞こえてこねぇ。
たぶん、まだ寝てないんだろう。
ミーシャに話を聞いてしばらく後── 一応いつもの日課になりつつあった飛行船の整備を、いつもの二人と一匹でしにも行ったんだが……。
あんまりにも身が入らなさ過ぎてヘイデンに呆れられ、結局早々に帰って来ちまった。
夕食だって静かなもんだ。
事情を知ったシエナがミーシャと一緒に結構豪勢な食事を作ってくれて、『ダルクの墓参りの時の依頼料は見世物屋にちゃんと渡しておくからね』と慰めてやったりもしたんだが、犬カバはすん、と鼻息だか鳴き声だか分からねぇ声を一声上げただけで、ほとんど何の反応もしなかった。
いつもなら……こーゆう食い物関連で自分がもらえるとなりゃあテンションいっぱいに上げてきゅんきゅん喜ぶところなのによ。
飯だって残してたし……俺が思うより、相当ショックを受けてんだろう。
俺だって……。
飛行船をちゃんと手に入れたら、ミーシャと犬カバを一番に乗せてやろうって思ってたのによ。
あとほんのひと月……いや、半月だっていい。
もう少し時間があれば、最後の記念に乗せてやる事だって、出来たかもしれねぇのに……。
「………」
俺は──天井から、横にいる犬カバの方へ目線を動かして、
「──なぁ、犬カバ」
そっと声をかける。
犬カバは……何の反応もしねぇ。
起きちゃあいるんだろーが、話したくはねぇんだろう。
俺はそいつを感じながらも、言葉を続ける。
「……お前、見世物屋に戻りたいって訳じゃないんだろ?
店主に屁をぶっかけて、見世物屋を逃げ出したくらいんだもんな。
お前が、どーしても帰りたくねぇってんなら……」
どうするってんだろう。
俺は続けるべき言葉を見つけられずに、そのままどうしようもなく口を閉ざす。
犬カバは、何も言わなかった。
けどその後ろ姿が……ほんのわずかに震えている。
泣いてんのを、見られねぇ様にしてんのか……?
その事に気づいた俺は……何にも言えずに、ただ天井へ目線を戻したのだった──。
◆◆◆◆◆
翌朝──
俺はぼんやりしたまま目を二度、瞬く。
カーテンを通してほんのりと赤く、陽の光が入ってくるのが見える。
──朝日だ。
低血圧で朝はわりと遅くまで寝てるのが常の俺にとっては、こんな日の出時間に目が醒めるなんてかなり珍しい。
俺はふと、いつもの犬カバの定位置へ──俺の顔のすぐ横へ、目をやった。
いつも通りのその場所に、いつも通りに黒い毛並みの犬カバが、くるんと丸まって鎮座している。
そのまるっとした後ろ姿を見ながら──。
──これからはもうこの光景を見る事もなくなるって訳か。
ふいに、苦いもんが胸の中に混じる。
正直──犬カバがこの定位置で寝る様になってからは、まだ日が浅い。
俺が山賊の頭にボコられて大ケガして動けなくなってからだから、言ってもひと月くらい前から、か?
そう、たったひと月のハズ……なんだが。
いつのまにか……こんなやつでも『居なくなったら寂しい』なんて思うほど、どーやら犬カバがこうしてここに居る事に、馴染んじまってたらしい。
俺はどうにも胸がモヤモヤして、ガバッとかけ布団を上げて半身だけでベッドの上に起き上がる。
俺がいきなり動き出したからだろう、横でくるんと丸まって大人しくしていた犬カバが、心底驚いた様にビクッと一つ跳ね上がって俺の方を向いた。
俺はその犬カバに向かって、
「〜犬カバ、」
思わず、口を開く。
「〜犬カバ、お前……」
呼びかけた先で、犬カバが俺をまあるい目で見返す。
俺はその犬カバの目をまっすぐ見据えて、続けた。
「……俺やミーシャと一緒に、ここに残りてぇって気は、あるか?」
問いかける。
犬カバがハッとした様に俺を見た。
俺は続ける。
「〜今までみてぇな預かりものの居候としてじゃなくってよ……。
ちゃんとうちの犬として、居つく気はあるか?
俺は……俺は、もしお前にその気があるんなら、ここにいりゃあいいって思ってんだ。
店主がお前を可愛がってるってのは、たぶん本当にそうなんだろ?
けど……あっちに帰りゃあまた、お前は見世物にされて、たぶん客に珍しがられて、笑いものにされんだろ?
だったら俺らと一緒にいて、フツーにその辺を出歩いて、みんなに可愛がってもらった方が、いいんじゃねぇかと俺は思う。
それに──お前にだって、ちゃんと空飛ぶ飛行船に乗せてやりてぇしよ。
んなのは俺の勝手な意見、なんだけどよ……。
お前にもしその気があるってんなら、俺は………お前を、店主からもらい受けてぇって思ってんだ。
──どうだ?
お前、うちの住人になる気、あるか?」
真剣に問いかけた先で──。
犬カバが──小さな丸い青い目をいっぱいに見開いて、俺を見る。
そうして次の瞬間にはぶわぁっと涙を目ぇいっぱいに浮かべて、びょ〜んと俺の方にジャンプした。
俺がそいつをしっかり抱きとめてやると、胸の中で犬カバがコクコクッと二度も頷いた。
そうして、もう一回。
「クヒクヒ!クヒ!」
しっかりと、返事をする。
そいつは、ただの言葉以上に──ハッキリと俺の胸に刺さって伝わる、いい答えだった。
確かに犬カバの答えは「YES」だ。
俺はニッと笑って、犬カバの頭をわしゃっと撫でてやる。
「〜分かった。
そうと決まったら、早速準備しなくちゃな。
店主がいつ来てもいい様にさ。
犬カバ、店主との交渉は任せとけ」
言うと、犬カバが「きゅっ」と一つ返事したのだった──。