二 人を喰う手
アパートでて自転車の鍵を開ける。大学の合格祝いに父がくれたスポーツタイプのロードバイクだ。とりあえずこいつで群馬にある実家まで行こう。
踊り場からあの子がこっちを見ている。
「いってきます」聞えないくらい小さい声で言ってみた。彼女は特に反応を示さず黙ってこっちを見ている。人形みたいな可愛さがある顔立ちなので黙っていればと思う。
川沿いの道を上流に向かって進んだ。日は高く、さんさんと降り注ぐ太陽光が肌に刺さる。ただ川付近の風は涼しくとても心地よかった。
少し進むと大きな橋が見えてきた。橋の真ん中から何が落ちている。誰かがゴミでも捨てているのだろうか。橋に近づくまでの間で三回ほど落とされていたそれはゴミではなかった。人だった。自転車を止めて少し観察してみると髪の長さと服装から女性だと判った。
その女性は橋から飛び降りた。空中でくるくる廻り、水面にぶつかる。気づくと橋の飛び降りた位置に戻りまた飛び降りた。彼女はどれ位あの動作を繰り返しているのだろう。僕は橋を通らず川沿いの道を進んだ。
最初の目的地は進行方向途中にあるお寺だ。このお寺は大きくて駅の名前にもなっている。
アパートをスタートしてから大分たってから到着した。境内の外の駐輪場に自転車を停めて鍵をかけていると、急に大きな影が僕を覆った。後ろに大きな何かがいる。多分幽霊じゃなくて物の怪の類いだ。鍵をかけ終わると後ろ向かないようにしてそそくさとお寺の境内に入る。中から駐輪場のあたりを見ると大きな三つ目の奴がいた。背中から大きな腕が映えている。向こうはこちらが見えている事に気が付いていないようだ。
それにしても広い。さすがに駅の名前になっているだけの事はあると思った。奥の方に進んでいくと本堂があった。本堂は特に何かあるわけでもなく。いかにも普通のお寺という感じだった。
「何かお探しですかな? 」急に後ろから話しかけられて背筋がビクッと伸びた。振り向くと袈裟を着た大柄の男がいた。
「驚かしてしまって申し訳ない。私は住職の修道と申します」目の前のお坊さんは頭を丁寧に下げお辞儀をした。大柄だがその表情は柔らかく口元には笑い皺がありとても人粗利がよさそうに見受けられる感じだ。
「初めまして。僕は成瀬といいます」修道という住職さんに丁寧な挨拶をされて自分も丁寧に挨拶をした。
「初めまして成瀬さん。どうですかこの本堂、有名な割には普通でしょう」
「えっ、はぁ」いきなりこんな事を聞かれてもまともに答えられるわけがない。
「ははは、すいませんね。今日はどうかしましたかな」
「今大学の研究で、実家の群馬に行くまでの神社やお寺を回って話を聞いているんですけど…」これは嘘だ。しかしもっともらしい事を言っておけば問題はない。確かめる事なんてできないのだから。それに話を聞きたいのは本当だ。
「ほうほう、それはよく参られました。中へはいりませんか」修道さんに案内され寺に入った。
中はとても涼しかった。日陰と風通りのよさ、これの二つがあればクーラーなんかいらない。そう思える心地よさだった。
「古いでしょう。この寺は」修道さんの言う通りこの寺は外で見るより古めかしく見える。
歩くと軋む床、少し黒ずんだ壁に木の匂い。この古いさが逆に新鮮で、なぜか懐かしく思えた。
「古いから所々にガタがきてね、そろそろ補修しようと思うのだが… 」修道さんは口をこもらせた。
「どうして補修しないのですか? 」
「気のりしないのでね。昔から古くて不便な事も多いが時間が経つにつれてこの古い感じが好きでな」修道さんの言う事もわかる気がするなんでも新しくて便利というのもいいかも知れない。けどこの寺のもつ魅力はそんなもので補えないと思った。
「さっ、こっちです」長い廊下を進み突き当たりを右に、通された部屋はフローリングの洋室だった。「どうしました」
「いえ。お寺にもフローリングがあるんだなって思って」
「ここは寺ではなく母屋ですからね」そう言うと修道さんはコップを二つ用意し、お茶を注いだ。「どうぞ。」すすめられるままお茶を口に運ぶ。お茶はとても冷たくておいしかった。僕は注がれたお茶をいっきに飲み干してしまった。
「ははは、今日も暑いですからね」修道さんもお茶を飲み干した。
「以上がこの寺の歴史です」修道さんの話を聞いてどの位が経っただろうか。いつの間にか外は暗くなっていた。ガササ。後ろの部屋の方から音が聞こえてきた。「何か他に聞きたい事はありますか」スズズ。また音がした。今お度は何かを引きずっているような音だ。「どうかしましたか? 」はっと我に返った。
「なんでも無いです。ところで修道さんは幽霊とかは信じていますか」
「幽霊ですか」
「はい。幽霊とか物の怪などの類いの事です」修道さんは黙って下を向いた。
「私にはわかりません」
「わからないというのは? 」
「存在しないとは言い切れないのです。住職をやっておりますが霊感が高いと思った事もないですし、ただ… 」
ガタン! 扉が開く音がした。振り向くと初老の女性と目があった。「お前か、おどかすなよ」どうやらこの女性は修道さんの奥さんらしい。
「あらお客さん? 」
「ああ、学生さんだ。今研究でお寺の事なんかを調べているらしいぞ」
「そうなの、若いのに感心ねえ」
「おおそうだ今日の夕食は彼の分も作ってくれ」
「えっ」突然の事に戸惑っていると修道さんが
「もう遅いから今日は泊っていきなさい」
「でも…」断ろうとすると
「せっかく来たんだどうせ宿も取ってないのだろう」今日会ったばかりの人に夕食や寝床まで用意してもらうのは悪い気がした。しかし
「すみません」
「なにこっちも子供が出てから寂しかったから。久々に若いもんと話せて楽しいからな」
案内された客間はお茶を飲んだ洋室の二つとなり、畳の部屋だった。押し入れから布団をだして引いた。腕時計の短針は十一を指していた。今日は修道さんが話す一方でこっちの聞きたい事は聞けなかった。明日は色々聞こう。そう思い部屋の電気を消した。
ズズズ、ガササ、ガサガサ
なんの音だろう。奥さんがまた何か探しているのだろうか? 気になるがそのまま目をつぶると眠気が襲ってきた。
…イタイ。…イタイッ。ズズズ
何かの音が聞こえ、目が覚めた。時計をみると午前4時だった。夢だろうかでも確かに聞えた。
なにか声みたいな音と何かを引きずる音は隣の部屋から聞こえる。僕は廊下に出た。音のした部屋の前に立ち耳を澄ます。
ズササ…ズズ…
確かに何かを引きずる音が聞こえる。何かいる。恐る恐る障子を開けた。
部屋は和室で右側に箪笥があるだけだった。ゆっくり見渡すが中にはなにもない。
「わっ」目の前に何か棒のような物が落ちて来た。それはズズズと音を立て、床を這って動いている。目を凝らすとそれは腕だった。
腕はこちらに向かって這って来たが興味がないのかある程度近づくと踵を返し部屋の奥に這って行った。腕なので踵はないが。腕は指と手首を曲げ動き、そこそこ速く移動する。箪笥の取っ手に指をかけては曲げて別の指で隙間に爪を立てロッククライムのように器用に登っていく。箪笥の三段目の取っ手に指をかけようとするが滑ってしまい下まで落ちた。その様子は気味が悪いが少し滑稽に見えた。
しかしこの腕は何だろう。襲ってくる様子はないが目的が分からないので不気味だ。
「こんな時間にどうかされましたか? 」
後ろから声をかけられ振り向くと修道さんがいた。「えっと… その… 」僕がどもると修道さんは部屋を少し覗き「お伝えしてなかったのですがこの和室には結界を張っているので入らないでください」
「結界って何かいるのですか⁉ 」一瞬修道さんが肩を揺らす。「いえそのなんというかその… 」歯切れが悪い。僕は思い切って聞いてみた。
「この部屋に手、腕がいませんか」修道さんは目を丸くして驚いた。「もしかして見えるのですか? 」
「はい。肘から先の腕が」
「なんと… 」
僕の他にも見える人がいた。そう思うと僕は嬉しい様な気がした。僕は少し興奮して聞いてみた。「昼間は霊感が高くないとおっしゃっていましたけど、この腕は見えるのですか? 」
「はい。と言ってもこの腕以外怪異というようなものは経験したことがないので」
「この腕について教えてください」修道さんは手を顎に当て少し考えると、「今はまだ時間が早いので、明日妻が昼前に出かけるのでそのあとにお話ししましょう」
「分かりました」
午前十一時頃奥さんが家を出た。それを修道さんと見送り、昨日の洋室に戻った。修道さんは難しい顔をして「何から話せばよいのやら… 」
「最初のあの手を見たのはいつですか? 」
「あの手は私が住職になって間もないころ、二十年以上前ですね。あの部屋で掃除をしていたら急に天井から落ちてきたのが最初、それから境内の色々な所で見かけましたが特に害もなかったので放置していたのだけど… 」
「害は無いのに結界を? 」
「それはだね、あの手は人を食うかもしれんのだよ」
「えっ、人を食う? 」あの手は思っていた以上に危険な存在だったのか。そんな危険なものがいるのに泊まっていくことをすすめるなんてちょっとこの人の良識を疑った。
「結界を張ってからはあの部屋からは出なくなり、そもそもこちらを襲うような行動も見せないので一応小坊や人はいれないようにしているのです。あの手が見える人もいなかったので」
「人を食うというのは… 」
「六年位前にあなたのように無銭旅行をしていた若者がこの寺に来たことがあったのだが、夕食を食べた後あの部屋に案内したときあの手が部屋の天井にいたのを確認したのだがその時は特に気にはしなかったが… 」修道さんの顔が少し曇った。「翌日彼がなかなか起きてこないので部屋を見たら誰もいなかった」
「その人が夜中に勝手に帰ったのではないのですか? 」
「それも考えたのだ。夜のうちに何かがあって大急ぎで帰ったのかもしれん。現に荷物はなかった。ただ直感ではあるが私はこの得体のしれない手が関わっていると思ったのだ。この手が彼を食ったから彼はいなくなったのだと… 」
ここで僕は少し疑問に思った。あの手を見た時は驚いたがなぜか恐怖を感じることはなかった。今までの経験上危険な物の怪や悪霊みたいなものなどからは恐怖心や嫌悪感に近いものを感じていた。直感的ではあるがあの手が危険であるとは思えなかったのだ。
「それで結界をはったのですね」
「はい。それ以降あの手は部屋から出ることはなくなったのだが、妻がよく出入りする上妻にはあの手は見えないらしくて開かずの間にもできなかったのだ」
「あの手とコミュニケーションしようとしましたか? 」あれ、僕は何を思ってこんなことを言ったんだ?
「いえ、意思疎通をしようにも耳も口もないので考えたこともありません。なぜそんなことをお聞きに? 」
「えっと、その、本当に人を食べるのかなぁ」って思って」
「というと」
「その、勘なのですけど、あの手がそんなに悪いものにみえないんです」なんで僕はあんな得体の知れないものの肩を持ったのだろう。でもなぜかそうしなければならないと思うのだ。
「確かに私もあの手から悪意など感じたことはないのだが… 」少しの沈黙。「やってみますか。コミュニケーション」明るい声で修道さんが言う。
「へっ? 」
「もしコミュニケーションが取れればあの日の事がわかるかもしれん。それに私の勘違いであの手を閉じ込めているというのは心苦しいので」自分が言い出したことだがこの人の切り替えの早さに少し驚いた。「しかし耳も口も無いのにどうやって会話したものか」
「僕に考えがあります。うまくいくかはわかりませんけど」
修道さんと手のいる部屋に入る。用意した物は鉛筆とメモ用紙。手なら書くことが出来ると思う。しかしこちらの意図に気づいてくれるだろうか。
手は部屋の真ん中あたりにいた。「さて、どうします? 」
「とりあえず声を掛けてみます」鉛筆とメモ用紙を手の少し前に置き「こんにちは。僕は成瀬といいます。えっと、その、あなたとお話がしたいのですがその紙に自己紹介でも書いてもらえますか? 」指を曲げ伸ばし手はこちらへ進んでくる。鉛筆に手を伸ばし紙に何か書きだした。
「おっ、成功ですかな」
「意外と簡単でしたね」手は鉛筆をおいて紙を人差し指でととんと叩いた。紙を見ると文字は達筆すぎてまるで読めなかった。「読めますか?」
「いえ、見覚えがあるが読むことはできないですな。確か江戸時代位古い文字だと」
さてどうしたものか。少し悩む。文字は書けるが読めないと筆談が成立しない。
「これではどうですかな」そう言って修道さんは紙に大きめの丸とバツを書いた。
「イエスなら丸、ノーならバツを指さしてもらうという方法はどうですかな」
「いいアイデアですね」これならいけるのではないか。僕は手に「この紙に丸とバツを書きました。こちらの質問に、はいなら丸、いいえならバツを指さしてもらえますか? 」手は丸を指で叩いた。
「まず何から聞きますか? 」
「やはりあの日いなくなった若者の事を」修道さんは膝に手を当てて手に顔を近づけて「最後にこの部屋に泊まった若い男の事を知ってますかな。六年位前だと思いますが」手は少しして丸の方を指で叩いた。「ではその男がどうなったか知ってますかな」手はバツの方を叩いた。「あなたが食べたとか… 」手は激しくバツを叩いた。
「あまり刺激しないようにしたほうが… 」
「おっと失礼」両手を軽くあげ口をすぼめて息を吐いた。この人は本当にノリが軽いなと思った。
手が後ろを指さした。それに気づいて振り向くとスーツを着こなした七三分けの男がいた。男は「お久しぶりです」と綺麗なお辞儀をした。
修道さんは首を傾げ「はて、どなたですか? んん、あっ」はっとして「もしかしてあの時の学生さんか」修道さんが言い終わると同時にその男は土下座をした。
「あの時は何も言わずにいなくなってすみませんでしたっ」いきなりの事も僕は面食らった。一方修道さんはあまり驚いた様子はなく、ゆっくりした口調で「どういう事か説明してもらえますか」
「はい。あの日… 」
その男が言うには、その男は大学院に行きたかったがお金がなかったしい。大学生最後の夏に無銭旅行している時、この寺に立ち寄り、夜寝ている時何かの音に気づき目を開け部屋を見渡すと手の存在に気づいたらしい。
眠気でぼんやりしていたため夢を見ていると思いその手に愚痴や自分の夢を話した。すると手が箪笥の後ろをトントンと指さした。何かなと思い箪笥を少し動かしてみると封筒が二つあり、手がそれを持ってきた。中を見ると札束があった。このお金があればと思い、魔が差してその封筒を盗みすぐに部屋を飛び出した。
そのお金のおかげで大学院の授業料が払えるめどがたち、進学そして就職し、今日盗んだお金と同じ額と利子をもって謝りに来たのだと。
「本当に申し訳ありませんでしたっ」大の男が地面に額をこすりつけている光景を初めて見た。話を聞き終えて修道さんは笑顔で答えた。
「貴方の助けになったのならけっこうです。お金も返してくれたので何も問題はありませんよ」
「ありがとうございますっ」
「ああ、お礼はあの手にしなさい」
「はいっ」男は部屋に入り手に向かって頭を下げ「あなたのおかげで院に行くこともできました、本当にありがとうございました」
手は手のひらをこちらに向けグーパーを繰り返した。多分気分がよいのだろう。手は丸とバツを書いた紙を指した。こちらと何か話したいらしい。僕は
「この人を助けたかったのですか? 」丸。
「お礼を言われて嬉しいですか? 」丸。
「このお金は修道さんのものですか? 」バツ。
「私の妻のものですかな? 」と修道さん。
丸。「なるほど、あなたを疑い閉じ込めてしまって申し訳ありませんでした。結界はすぐに解除しますね」丸。
修道さんは部屋の四隅の塩を取り外に捨てながら僕に向かって「私もまだまだ修行が足りませんな」と笑顔で言った。そしてその封筒からお札を二枚程抜いて袖に入れた。
僕はこの人は食えないなと思った。




