001 聞き耳
プロローグと同時に投稿していますので、未読の方はそちらからお読みください。
8月3日の22時。
この俺、戸館佑人は自室のベランダで麦茶を飲んでいた。
別に夜景を眺めたくなったわけではない。
一軒家の2階から見える住宅街の景色なんて、たかが知れている。
ただ単に、空調が機能していない屋内よりはここの方が涼しいだろうと考えただけのことだ。
俺の部屋のエアコンは、数時間前に異音とともに動かなくなってしまっていた。
せっかく今日から夏休みだというのに幸先が悪い。
不幸中の幸いにも修理業者は明日に来てくれるらしいので、今夜さえなんとか凌げればいい。
まだ寝るには少し早いし、しばらくここでスマホでもいじって時間を潰そう。
防犯上ちょっと心配ではあるが、寝るときは窓を全開にして、扇風機をつけて耐えるつもりだった。
「つっても、外も別に涼しくはないんだよな」
それが夏というものだ。
屋内よりは僅かにマシだが、頼みの風もぬるい。
麦茶に入れた氷を噛み砕いた。
口の中は一気に冷えるが、体はそうもいかない。
汗が額を伝う。
「ん?」
生暖かい空気に乗って耳に流れ込んでくる、いかにも住宅街らしい雑音。
近所の家のテレビの音とか、犬の鳴き声とか、バイクのエンジン音とか。
その中に気になるものがあった。
我が家の2階ベランダの正面には、面木家のベランダがある。
プライバシー的にどうかと思うのだけれども、その間隔は30cm程度しかない。
俺の部屋の向かいは七重の部屋。
そこから話し声が漏れているようだった。
もちろん、他人の部屋を覗くようなことは許されない。
相手が年頃の女子であればなおさらだ。
(カーテンが閉められているので、そもそも物理的に不可能だが)
俺もここ数年はなるべく自室のカーテンを閉じっぱなしにしていた。
偶然にも同じタイミングでカーテンを開けてしまい、目が合ったときの気まずさといったらなかったから。
だから今も、万一がないようにと七重の部屋が視界に入らないようにしていた。
ベランダに立って右を向くと、眼下に広がるのは何の面白みもないベッドタウンの夜景。
街灯が1つ切れているのが目に入った。
小学生低学年の頃まではベランダからお互いの部屋を行き来していたものだが、最近は滅多なことがない限りはここに出ることもない。
それこそ、真夏にエアコンが壊れでもしなければ。
――さて。
覗きは当然として、耳をそばだてるのだって倫理的によろしくない。
そりゃあよくないよ。
でも。でもさぁ。
たまたまベランダにいて、自然に聞こえてくる音が耳に入るのは仕方がないんじゃないですかね?
好奇心を抑えきれなかった俺は自分に言い訳し、耳に全神経を集中させた。
「……」
誰かと喋っている?
話している内容まではよく分からないが、確かに七重の声だ。
親と喋っているにしては七重の声しか聞こえないのが不自然。
となれば友達と電話でもしているのだろうか。
相手が友達でなければ、彼氏とか。
彼氏だったらなんか凹むな。
俺と七重が付き合うような流れなんて今までなかったし、どちらかがそういう関係を望んだこともない。
なかったはずだ。
それでも凹むものは凹む……。
「ひゃっ!!」
「っ!?」
甲高い悲鳴が聞こえた。
よくよく見ると、微かに窓が開いているのが目に入った。
カーテンが微かに揺れている。
ひょっとして七重の部屋のエアコンも壊れていて、それで窓を開けて――
違うな。
室外機が動いているからエアコンはついているはず。
まさかとは思うが、俺がベランダに出る前に、あいつの部屋に窓から変質者が押し入ってたり……それは流石にないか。
ないよな?
つい先日、町内で押し入り強盗事件が発生したというニュースを見たばかりだった。
そうそうありえないが、可能性は0ではない。
コップとスマホを足元に置き、ベランダの柵に手をかけた。
万一の場合には向こうのベランダへと飛び移る覚悟を決めて様子を伺う。
「あぁもう、びっくりしましたわ……!」
七重の声。
身を乗り出したお蔭ではっきりと聞こえた。
どうやら杞憂だったらしい。
友達と電話しながらホラー映画でも見ているのか。
驚かせやがって。
察するに、七重は窓を締め忘れたままエアコンをつけてしまっているらしい。
省エネのことを思えばもったいないが、わざわざベランダ越しに声をかけて教えるのも気が引ける。
会話中のようだし、部屋を覗こうとしていたと勘違いされても困る。
盗み聞き紛いのことはしてしまったけど。
「……って」
何かがおかしくなかったか?
言いようのない違和感。
手すりにもたれたまま数秒間考え、その正体に気づいた。
『びっくりしましたわ』
七重は確かにそう言っていた。
いやいや。お前そんなキャラじゃなかっただろ。
普通に「びっくりした!」とか「びびった!」とかそんなもんだろ。
声色も普段と少し違ったような気がするし、どうしたんだ?
猫を被るような相手と話しているのか。
「私、怖いのって苦手で……泣いてしまうかもしれません……」
ハァ~!? 誰だよ!?
いや、明らかに七重の声だ。
しかし俺はあいつがこんな喋り方をしているのは聞いたことがない。
いつの間にかキャラ変したのか?
これも一種の大学デビューってやつか?
っていうかお前、びっくり系はともかく怖いの自体は全然平気だろ。
小学生の頃に、嫌がる俺を無理やりお化け屋敷に連れて行ったりしてたじゃん。
泣きじゃくる俺を、笑いながら出口まで引きずってたじゃん。
「やだ……怖い……」
「ひゃあっ! やめてください~!!」
これ聞いてるの、結構キツいな。
念のために言っておくが、二次元キャラのような口調に引いているわけではない。
俺はアニメやらゲームが好きだし、なんなら声優だって好きな方だ。
ぶりっ子な女子だって嫌いではない。
ただただ、七重が俺の知らない人間になっているのが受け入れ難かったのだ。
「寝よう」
うん。寝て全て忘れよう。
俺は柵の手すりから体を離そうとして――
「リスナーの皆さんが見てくれていますから、このステージをクリアするまでは頑張ります!」
という言葉に動きを止めた。
リスナー? ステージ? クリア?
オタクに分類される俺からすると、どれもそこそこ聞き覚えのある単語だった。
「……そういうことか」
断片的な情報が繋がり、俺はようやく全てを理解した。
七重はいわゆるゲーム実況配信をしていたのだ。
インターネットを通じて自分がゲームをプレイする様子を動画配信し、リスナー(視聴者)とコミュニケーションを取る行為。
たまに見るし、俺自身も過去に数回だけやってみたことがある。
2・3人のリアル友達しか見てくれなかったけど。
怖い怖いと連呼していたので、七重がプレイしているのはおそらくホラーゲーム。
であれば、淡々とクリアするより大げさに怖がってみせた方がリスナーも喜ぶことだろう。
つまり、演じているわけだ。
素の七重が変わってしまったわけではないのだと分かると安心した。
そういうことなら心穏やかに楽しめる。
声とゲーム音だけでは配信の全貌は分からないが、それでも雰囲気を感じることはできる。
せっかくだから最後まで聞いてみよう。
「今のずるくないですか? 初見殺しですわよ!」
「待ってください! ドアが開きません……!! 死んでしまいますわ!!」
――お嬢様キャラなのかな?
ジャンルで言えば萌え声生主になるんだろうか。
七重、俺が知らない内にこんなこと始めてたんだな……。
いつからやっているんだろう。
___
「やりました!」
氷が溶けきって常温になってしまった麦茶をちびちびと飲んでいると、七重の歓声が聞こえた。
目標のステージクリアを達成したのか。
「……それじゃあ今日はこれぐらいにしておきましょうか。みなさん、絶対また見に来てくださいね! 約束ですわよ」
どうやら配信が終わるようだ。
スマホで確認すると、時刻は23時過ぎ。
自分の知らなかった幼馴染の一面を覗く緊張感と興奮で、手すりにもたれかかったまま1時間も聞き入っていたらしい。
まぁ本人が全世界に向けて配信しているのだから、俺が聞いたって罪にはならないはずだけども。
「寝れるかな……」
完全に目が冴えていた。
夏休みなので大学の授業はないし、寝坊してしまってもさして問題はない。
とはいえ蒸し暑い部屋で何時間も寝付けないのは辛そうだ。
どうしたものかと考えながら、スマホから顔を上げると――
窓から顔をのぞかせていた七重と目が合った。
初投稿です。
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活動報告もこまめにしていくつもりです。