盗まれた心は悪しき闇に沈みゆく 1
街は貧富の差がひどく、もともとの生まれが貧しいものは、ただそれだけで差別され、軽蔑されていた。
「くそ! またか……」
ここにもまた不当な扱いを受ける一人の若者がいた。若者の名はアル、今日もまた働き口を探したが、身分を差別されて断られたのだ。彼は焦っていた。唯一の家族である父親が病気で、薬を買うためにどうしても金銭が必要だった。彼の母親は彼が幼い頃に病気で亡くなっていた。その頃、薬を買うお金が無く、母親は病気にかかると、その数日後に命を亡くしていた。もう二度とそんな事は繰り返したくはなかった。そんな彼が頼っていたのは、いつも友人レッドのところとなってしまっていた。
「レッド…… また頼めるか?……」
「俺のとこも苦しいけど、お前のとこよりはまだましだからな。ほらよ」
アルはレッドの顔色をうかがう様に頼んだがそんなことにはお構いなしにレッドは快く金銭を手渡した。
「困った時は助け合うもんなんだよ。アル、俺が困った時には助けてくれよ」
「いつもありがとう、レッド」
レッドのやさしさはアルの心に染み渡っていた。それとは裏腹にアルの焦りは増すばかりだった。そんなある日、暗い裏通りを通り過ぎようとしたアルの前に奇妙な生物が姿を現した。ロバの頭、ガチョウの脚、ウサギの尻尾をもったこれまでアルの目にしたことのない生き物だった。
「奇劇者の方ですか?」
すっかりアルは作り物だと思っていた。無理もない、こんな生き物が存在する方がどうかしているからだ。だが、その生き物は作り物の動きをしていなかったことにアルはひどく驚き、腰を抜かした。
「アル……」
化け物はそのロバの口を器用に動かし、自分の名を呼んだのをアルは確かに耳で聞き、目で見た。到底理解できぬ状況にアルは肝を冷やした。
「アル、薬が欲しいんだろ?」
化け物の言葉に、アルは無言で首を縦に振った。今の彼にはその動きだけで精一杯だった。
「アル、簡単な方法を教えてやるよ。盗むんだよ、簡単だろ? 盗み方は俺が教えてやるよ」
アルは無言で首を横に振った。
「なんだ、期待外れだったな…… じゃあなアル」
化け物は振り返るとその不気味な姿を暗闇へ消していった。
――――――――――
「レッドー! レッドー! 化け物見たー!!」
アルは慌ててレッドのところへ行き、さっき見た化け物のことを事細かに話した。だが案の定、誰もアルの話しを信じる者はいなかった。
「ほんとなんだってさぁー、信じてくれよー」
「そんなの信じれるわけないだろ、まんまと騙されたんだよ。きっとどっかの金持ちが影で笑ってら」
親友のレッドでさえ、アルの話を信じようとはしなかった。
だが数日後、その化け物は再びアルの前に姿を現した。アルに盗みの話を持ちかけては、アルはそれを拒否する。その後、何度となくアルの前に姿を現すようになっていった。
「ほんとなんだって! また出てきたんだよー!」
「だから、そんなのは金持ちの暇つぶしだって」
化け物に出くわすたびに事の全てをレッドに話したが、レッドはまともに聞く耳を持っていなかった。それどころかレッドの口から思いもよらない事を言われることとなる。
「そんな話よりもさ、実は俺の家もやばいことになって余裕がないんだ……。すまないがもう金を渡す事はできない……」
「俺の親父はどうなるんだよ!」
「すまないな、アル……」
アルはレッドの胸倉を掴んだ。レッドは無抵抗に首を逸らし、目線を合わせようとしなかった。アルはレッドから手を離すと、肩を落としながら家に帰った。
「親父…… 今日は薬を買えなかったんだ……」
「いいんだ俺の事は…… 今まで苦労をかけたな。アル、お前は自分の事だけ考えればいい」
「ダメだ! もう嫌なんだ家族が死ぬのを見るのは! 絶対何とかするから……」
アルは激しく抵抗した。無意識にその頬には涙が伝った。
アルはその翌日も翌々日も仕事を探したが、無残にも断られた。父親の容態は日を増すごとに目に見て悪くなっていくのがわかった。アルは再びレッドに頼みに行くが、そこでもまた断られる。レッドも苦しそうに涙を流し、アルはその姿を見て、何も言えずにうなだれた。その帰り道、ひと気のない薄暗い裏通りで、再び化け物はアルの前に姿を現したのだった。
「アル、薬が欲しいんだろ?」
「ああ、欲しいよ」
これまでの何度とないやり取りで、アルは化け物と普通に会話できるまでになっていた。
「アル、薬を盗む気になったか?」
それまで何の躊躇もなく拒否していた問いにアルの心は揺れていた。
「簡単に出来るのか?」
「アル、俺に任せれば簡単にできるぞ。盗む気になったか?」
今までどんなに貧しくても犯罪だけはしないと決めていたアルの心は少しずつ綻び始めていた。アルは首を縦に振った。
「よし、ふふふ……」
化け物は初めて笑った。地底から響くような不気味な笑い声だった……。