愛の涙は黒く染められた 1
街はどんよりと薄暗い雲に包まれていた。今に始まったことではない。街は悪魔や悪霊の噂話が絶えず話されていた。そのためか修道の道へ進む者も多く、ローブ姿が多く目につく。
いつからか人々は俯きかげんになり、街の活気は失われていた。
レンガ造りや木造などの家が建ち並び、足元は石畳で綺麗に整理されている。もっぱらこの時代、移動手段としては馬やら馬車が利用されているが、それも金持ち貴族と限られていた。 街並みに目を移すと、若い男女が視界に入ってきた。
「ウェナン、いってらっしゃい」
彼女の名はエトナ、先日ウェナンという青年と結婚したばかりだ。
「ああ、いってくるよ」
誰もがうらやむ様な美男美女の二人、玄関先で二人は軽くキスを交わすと、ウェナンは仕事へ出かけていった。彼は大工の仕事をしていた。まだ新米で材料を運ぶのが主な仕事となっている。
いつもと同じ、今までの毎日となんら変わらぬ一日の平和な風景……。のはずであった。
数時間後、エトナは家事を終えると、昼食の買い物へ出かけた。だが、いつもとは違う街の雰囲気を敏感に感じた。店の前で人々がざわざわと慌ただしくしているのが目に入った。
「エトナ! エトナ!」
親しくしている婦人の一人が彼女を大声で呼んだ。何事かと思い、彼女もすぐに駆け寄った。
「ウェナンが……、木材の下敷きに……」
「え!!……」
状況が把握できずに立ち尽くす彼女の目の前で婦人はその場に泣き崩れた。彼女は婦人の肩をやさしく抱き寄せた。
「ウェナンは……、ウェナンはどこに?」
「病院へ運ばれたそうよ……」
彼女は買い物籠を放り投げるようにして、無心で病院へ走り出していた。
「ウェナン……。ウェナーン!……いやーー!」
彼女の叫びは街に響き渡っていた。エトナは病院へ着くと急いでウェナンのもとへと駆け寄った。医師はただただ首を横へ振るばかり、手の施し様はないと、その仕草は語っている。
「いやよ! ウェナン! ウェナン!」
彼女は激しくウェナンの体をゆすった。ウェナンはかろうじて生きてはいるが、苦しそうに冷や汗を流すばかりだった。
「先生! ウェナンは?助かるんですよね?」
「申し訳ないが……、そんなに長くはないだろう。明日まで生きているかどうかさえ……」
医師は残念そうに首をうな垂れさせ首を横にふると、静かにその場から姿を消した。
「いやよ! ウェナン、私を置いていかないで!」
エトナは薄暗い病室に一人残されると、ウェナンの両手をかたく握り、何時間も神へ祈り続けた。彼女の祈りが届いたのか否か、そこへローブ姿の人影が姿を現した。頭からフードをかぶり、病室の暗さもあってからか、その表情はうかがい知れない。
「私はサブナクと申すもの。エトナよ、その男の命は消えかけておる。もう少しすれば、完全に消える運命。それでもなお、神へ祈り続けるおつもりか? もし神がおられるのであれば、そなたの祈りは届いておられるはず、神はそなたの祈りを叶えるおつもりはないと見える。それでもなお、お前は、愚かな神を信じるおつもりか? そんなそなたもまた愚かな生き物であろう……」
太く低い声が、エトナの心の深くに響き沈んでいった。
「私には頼れるものがないのです。こうなってしまっては、神に祈るしかありません」
エトナはサブナクへ涙ながらに声を震わせた。
「ならば、私を信じるが良い。ウェナンの魂を呼び戻して見せよう」
そう言うと、男は地に響くような低い声で不気味に笑った。彼女はためらいながらも軽く頷いた。それを確認するや否やサブナクはエトナの手を乱暴に払い除けた。サブナクと名乗るその男はウェナンの胸から腹の辺りに両手をあてると、ぶつぶつと呪文のような言葉を呟き始めた。エトナは尻餅をついた格好でその光景をくいるように見守った。しばらくするとサブナクはウェナンから両手を離した。
「明日は死んだように眠ったままだが、明後日には嘘のように元気になるであろう。ふふふ……」
サブナクは不気味な笑い声を病室に残したまま姿を消した。
「ウェナン……。ウェナン……」
エトナは、またウェナンの両手を握り締め、神への祈りをいつまでも続けていた……。