文化祭前日
終わったー。ついに文化祭を明日に控えるまでになった。皆にとっては明日が本番なのだろうが、すでに2回経験している私にしてみれば今日が終われば終わったも同然なのである。
当日の私の委員の仕事は来客案内とか見回りとかの簡単なものだけだし、所詮真面目な校風だから大して問題も出ないのは分かっている。
今日は校内循環して不備がないか最終確認するのみ。担当のクラスを一つ一つ見て回り、常軌を逸していないか判断していく。2年3組は大丈夫っと、手持ちのリストにチェックをつける。そもそも常軌を逸するほどの物って何? やるとしても準備の段階で分かるようなことはまずしないだろう。
続いて美術部の絵画展示の確認に向かう。美術室には全くもって良い思い出はないのだが、確認しないわけにもいくまい。そういえば美術部でまともに活動しているのは鈴音ぐらいだと聞くが、文化祭用の展示ができているのだろうか。
今日は追い込みをしたいということで委員長に頼みこんで鈴音は見回りの免除を願い出ていたらしいと噂で聞いた。ということは、まだ美術室に彼女はいるかもしれない。何となく、会いたくはない。
半年――まあ、実際には3年程の時間を同じ学校で過ごしていたにも関わらず、彼女と話をしたことはただの一回もない。そりゃ、クラスも部活も合同授業も別々の人間と会話する機会など限られているのは分かってはいるが、同じ人間に殺害された経験を持つもの同士が共通ゼロというのも不思議な感じだ。一週間見張っていたことも、殺害現場を見たこともあるのに他人以下の関係のまま。
美術室は作品の劣化を防ぐためにか、廊下側の窓も中庭側の窓も暗幕がかかっており、中が開いている時は少ない。それゆえ関係者以外は非常に入りづらい印象がある。それ以前に私にとってこの場所は殺害現場であり、良い印象どころか鬼門でしかない。
よけいな干渉をしているとはいえ5か月も死期が早まることはないとは思うが、扉の先で血みどろの光景が繰り広げられたらという不安が拭いきれない。万が一という可能性を頭の片隅に置き、音を立てぬように静かにドアを開く。
開いた先に真っ赤な世界が飛び込んできて身を構えたが、それがただの絵の具の広がるキャンバスである気がついてほっと息をつく。
大人3人分程もの大きさのキャンバスに紅葉したカエデが一面に描かれているだけであったが、その血のような赤に心がざわめいた。
見ると部屋は天井から布が吊られ、一本道になるように区切られている。その道に等間隔に絵画が飾られ、鑑賞しながら進んでいく形式になっているようだ。
吊らされた布は白いものであったのだろうが、その布にもびっしりと絵の具がひしめきあっている。紅葉の絵の後ろの布には黄色のイチョウが描かれ背景も合わせて一つの絵となっているようだった。床も同じ。イチョウが描きめぐらされた布が敷かれ、まるで落ち葉が地面に広がっているようにしか見えない。
背景だけでなく、ここは教室全体が絵画となっているのだ。
布の色は次の絵画の元へ行くにつれ変化しており、グラデーションのようになっていた。
色は黄から青へ移り変わる。海を表しているのか、次の布は澄んだ青で彩られている。その前にたたずむ絵は先程の大きさとは打って変わってA3サイズ程で背景と同じ青が塗られている。背景の青とは異なり深海を思わせるような深い青。まるで手を突っ込んだら海の底まで沈んでいってしまいそうな錯覚を引き起こす。
先を見ると同じように色を変え道は続いていく。ぐねりと曲がるように道は作られ、狭い教室の中だが結構な展示数があることが予想される。
絵心がないのでどう評価していいかは分からないが、上手い下手で言えば上手いとしかいいようがない。そして何より独特な世界に引き込んでしまう絵だと思う。決して現実離れした絵ではないのに、現実感と乖離した世界にいる感じがした。
これを鈴音が描いたのだろうか? 作者名が書かれていないので確証はないが、まともに活動しているのが彼女をおいて他にいない以上、彼女が制作者で間違いないだろう。素直に鈴音を凄いと思う。可愛いだけ、人を上手く使うだけでない、深い彼女の内面のような気がした。
純粋に作品に感動して、点検していることを忘れ、美術室を進んでいく。ぽつりと話声が聞こえたのはそんな矢先だ。
「大体君、俺に興味なかったんじゃねぇの?」
「そんなことないです、高坂先輩に興味ありますよー」
うっわ。鈴音と高坂先輩の声じゃないか。美術部の鈴音はともかく、何で高坂先輩がここにいるんだか。委員の見回りはどうしたんだ。
「なんでいきなりまとわり付き出してきたかな」
「えー? 実行委員の同じ係で過ごしてきて高坂先輩のことが好きになったんですよ。ずっと言ってるじゃないですかー。信じてくれないんですか?」
ほわっと! 高坂先輩を好きですと!? 何言っているんだ鈴音ちゃん、一体いつの間にフラグ立ってたの! 実行委員が一緒でってこの一か月のことでしょ? フラグ立つの早すぎない? 乙女ゲームだと最低1年ぐらいはかかるというのに!
布の道のちょうど隅に隠れるようにして、曲がり角の先をちらりと覗き見る。道はそこで切れており、椅子がごちゃごちゃと目の前に積まれている。ここで展示は終わりということだろうか。積まれた椅子のおかげでその先にいる二人から私がいることは気付かれていないみたいだ。
椅子の先は美術室の机と椅子が寄せておかれており、その椅子の一つに鈴音と高坂先輩がそれぞれ座っている。
「それに鈴音が付いてくると、みんな喜ぶんですよ。先輩は嬉しくないの?」
「かわいーい女の子なら嬉しいな」
「鈴音が可愛くないっていうんですか」
「いーや、可愛いよ。可愛い可愛いお人形ちゃんだ」
「高坂先輩、そのお人形ちゃんっていう呼び方はそろそろやめてほしいです」
「なんで? まるでお人形みたいに可愛いじゃないか」
「鈴音って呼んで欲しいのにー」
「それが嫌ならお人形遣いちゃんかな」
「ひどいですよ、せんぱーい。人権侵害です」
「侵害じゃないだろ、本当のことでしかない」
「それ本当にそう思ってるんでしたらもっとひどいですよ」
「だって回りの子を自分の好きなように動かしているだろ」
「別に鈴音が命令してるわけじゃなくてー、皆がそうしてくれるんです。いい子ですよね。鈴音は嬉しい」
「じゃあやっぱり君はお人形ちゃんだな。自分で手足を動かさずとも好きなように動かしてもらえる人形だ。お人形ちゃんにその手足はいらないんじゃないか?」
何この会話? 鈴音の告白とかではなかったの? 皮肉まみれというか、淡々としているというか、情緒のかけらもない。
「……そうですね、高坂先輩が鈴音の代わりに動いてくれるなら、鈴音の手足はいらないかな」
鈴音は椅子から降りると、3歩先の椅子に腰掛ける高坂先輩に乗りかかる体制になり、顔を両手で包む。顔の近さは数センチ程もない。こ、これがラブコメってやつ?
「ねえ、鈴音のこと好きにしたくない? 普段は皆が言うこと聞いてくれる鈴音を、先輩の思うままにしたくないですか?」
にこりと微笑んだかと思うと、鈴音はぱっと離れて、先程座っていた椅子にまた腰を下ろす。
作品の制作中なのか、すぐ隣の長机には筆やらパレットやらが転がっている。その中に筆洗い用に水の入った容器が3つ程並んでおり、鈴音はその内の一つを何故か自分側に向かって指で弾き倒す。倒れた容器から流れた水は机をつたい、すぐ横にいる鈴音の足を濡らしていく。
「ねえねえ、汚れた足をどうしたらいいと思う?」
拭いたらいいと思う! ……駄目だ、違うのか。
鈴音はおもむろに足を組み直し、靴を一足振り飛ばす。近くの床に逆向きに靴は転がる。水は指先までしたたっており、つま先から滴がぽたりと落ちた。
「舐めて綺麗にして」
鈴音は極上の笑顔を向けて、高坂先輩に命令する。
ぶっ飛んだことを言っているが、はい、喜んでーと二つ返事で聞きたくなる程の可憐さだ。本当に可憐なやつはそんなこと言いもしないだろうが。
「お願ーい。そうしてくれたら鈴音、嬉しいの。鈴音が好きな高坂先輩がそうしてくれたら、鈴音もう絶対服従になっちゃうと思うなー。ね、交換条件でどう? 今鈴音の足舐めてくれるなら、これから先、高坂先輩の物になってあげるー」
にこにこしながら、命令を促す。
可愛いことを言ってるようだが、ぶっちゃけると、私の足舐めなさいと言っているわけであって、何寝ぼけてんのと一蹴してやりたいことだが、何分鈴音の言うことは何でも聞いてあげたくなる魅力がある。
マフィアに銃を突きつけられたら、命乞いで何でもしたくなるのと同じような感覚。
鈴音ちゃんの足舐めることぐらいむしろご褒美ですという事をクラスの男子が熱弁して気持ち悪いことこの上なかったが、それは事実なのだろう。彼女ならそれぐらいさせる事造作なさそうだ。
しかも今回は舐めてくれたら、何でもしてあげるーって言ってるんでしょ?
高坂先輩は口角を上げて一歩近づく。膝をついて鈴音の細い足首に手を侍らす。まさか、本当に足舐めんの? 正直、いい歳した男が女子の足舐めるとかドン引きなんですけど。
……ドン引きだが、二人の様子を見てると不思議と絵になると思ってしまった。綺麗な顔ってマジ得だ。何しても綺麗とか不公平すぎる。
足首に手を添わせたまま、高坂先輩はゆっくり顔をあげる。先程から作り物のように崩さなかった笑顔が急に表情を消した。
その瞬間、添わせているだけだった手はガッと足首を掴み勢いよくその場を立ち上がる。つまりは椅子に座っている鈴音はひっくり返るわけで、勢いよく上半身から地面に落ちる。
「きゃっ……なっ」
横にある机に頭を打たずには済んでいたが、結構危ない体制でひっくり返ってしまっている。鈴音は事態を把握できずに目を白黒させていたが、そんな様子を気にも留めず、高坂先輩は掴んでいた足首を乱暴に離すと横の机に置いてあった水入れの容器を手に取って、鈴音の頭上に放り投げる。
カランカランと高い音を立てて、容器は床に転がった。幸い鈴音の頭に当たることはなかったが、中に入っていた水は容赦なく鈴音に降りかかっていた。水量は少なく、びしょ濡れという程ではなかったが、確実に顔と髪を汚していた。
高坂先輩はまだ頭が付いて行っていない鈴音の手を取り、起こし上げる。上げたと思ったら、そのまま手の平を鈴音の前に見せて止まっている。何がしたいのか良く分からず、鈴音も戸惑いの表情だ。
「今ので手に水がかかった」
無表情だった高坂先輩はまたも笑顔を作り言い放つ。
「舐めて綺麗にしろよ」
ど、ドSだ! こいつらぶっ飛んだS!! お互い一歩も引きやしない。
「足舐めりゃ、言うこと聞くだ? 馬鹿じゃねぇの? 適当なエサで服従させて絶対的な上下関係付きつけるような犬の躾のような真似してぇだけだろ」
ぽたりぽたりと髪から雫が滴る鈴音はうつむいたままだったが、ゆっくりと上げた表情を見て驚愕した。鈴音は恍惚としていた。それこそ初めて恋を知った天使のごとく憂いと抑えきれない喜びを現していた。何故!? どこでそんな表情になる原因があった!?
鈴音は出された手をそっと両手で包むように触れると、自分の顔前まで持って行き、指先に舌を這わせ始めた。
先程、足を舐めるのかと思った高坂先輩を「ドン引きだが絵になる」と思ったが、正確には違った。「絵になるかもしれないが、実際みたらドン引きする」が正しい表現だ。一緒かもしれないが心情的に後者だ。どんなに綺麗でもこれは引くわー。きれーに人差し指の先から付け根まで舐めている。あの水は一応、筆を洗った後の水であってそんなもの口に入れてはいけません! と言いたかったが、それを毛の程も気にしている様子はない。舐める方も舐められる方もどうかと思うのだが、これどうよ。もう、ちょっと……限界です。帰りたい。
鈴音は一通り舐め終わったにも関わらず、光悦した顔で高坂先輩の指先に触れている。
「嬉しい」
何が!? どこが!? 鈴音はドSに見せかけたドMだったの?
「人形なんて呼んでても、高坂先輩は鈴音のこと本当は全く作り物だなんて思ってなかったのね」
「どこからそんな超越した考えにたどり着くんだよ」
本当それ正論。行動と発言の繋がりが分からない。
「鈴音のいう事聞いてくれなかったのが嬉しいの。聞いてくれなかったけど、鈴音にそんな命令したってことは鈴音のこと認めてくれてるんでしょ?」
「別に俺は俺にふざけたこと言ったやつに仕返してやりたかっただけだが」
「そう、それが嬉しい。人は人形に仕返しなんてしないし、そんなこと言わないわ」
鈴音は脱げた靴を履き直すと、花が舞っているかのようにくるりとその場を一回転する。
「私のこと可愛がってるって自分が思いたい為だけに、無条件に私の言う事聞く人は嫌い。でも、私の事可愛がるために言う事聞かせる人も嫌い。笑っていろ、可愛い服を着ろ、言葉遣いを直せ、ただ黙ってうなずけ? そんなことさせたいんだったら、着せ替え人形で遊んでればいいじゃない」
「それで? 俺も確かに言うこと聞かせようとした内の一人だが?」
「指を舐めろだなんて、ごっこ遊びですら、人形に絶対に言わないようなことを言ってもらえて嬉しかったの。鈴音のこと心の底から人だと思ってくれてるんでしょ」
普通は人形どころか人間にもそんな命令しないと思う。鈴音の言いたいことの意味が分からない。その理論は支離滅裂に感じる。
「ああ、そうか。お前は心の底まで狂気じみてるんだな」
「そうだよ、知らなかった? でもそれも分かってくれて嬉しい。ああ、私先輩の事を誤解していた。私、高坂先輩が本当に好きよ。大好き」
机にもたれかかり突っ立てる高坂先輩の胸に顔を埋めるように鈴音はギュッと抱きつく。
「ねえ、高坂先輩も私の事好きになってくれる? 言葉だけでなくて本当の意味で。他の子に投げ捨てている薄っぺらい言葉はいらないわ。鈴音の手足はあげるから、鈴音を好きになって」
「へー? 本当に手足でも何でもくれる?」
「うん、あげる。そしたらいいの?」
抱きつく鈴音を離すように、その場にこかす。鈴音のファンが見たら泣くぞ。
「今後のお人形ちゃん次第だな。俺は1カ月そこらで他人に好意は感じられねぇよ。それに…………」
まだ会話は続いているようだが、足音を立てないようにその場を離れた。今すぐこの二人がくっ付くようなことはなさそうだし、まだ委員会の仕事も残っている。というよりも急な展開についていけない。頭を整理したい。
とりあえず分かったことが二つある。鈴音が本気で高坂先輩を好きになったらしいという、有難くない事実。
それと、鈴音はドMだったということ。ああ……文化祭は明日だ。