もう絵の具はない
「あの丘の上にある木まで競争しよう。ジュース賭けて」
僕は彼女に勝負を持ちかける。
彼女は何も言わずに微笑んでこくんと頷いた。
彼女は陸上部で、当然足も速い。それでも僕は勝負を挑んだ。
決して勝算があるわけではない。
小学校のかけっこからずっとクラスの真ん中ぐらいを行き来していたからだ。
「じゃあ君がスタートしてから三だけ数えてスタートするよ」
更に自分が不利になるよう提案する。
もちろん彼女は承諾する。
スタート。
距離にして二百メートルはあるだろうか。勾配は後半にかけてきつくなってくる。
僕は百メートルを過ぎたところから足が動かなくなってきて、息も絶え絶えになってきた。
視界が狭くなる。
遠くなる彼女の背中だけを見ていた。
「はい、私の勝ち! ジュースごちそうさまー!」丘の頂上で彼女は息をほとんど乱さずに言った。
僕はこみ上げる酸っぱいものを堪え、無理に笑顔を作る。
「どっちがおごるか言ってないよ」
「ちょっと。そんなの負けた方に決まってるでしょ」
「それを決めつけたのは君だよ。僕は勝った方だと思ってたから」
「最低! でも、ま、いっか。明日誕生日だもんね。十本でも二十本でも買ってあげるよ」
彼女はいつも大げさだ。いつもは断るけども今日はありがたく頂戴しよう。
「ありがとう! じゃあ、十本もらっちゃうよ」
「でもそんないっぱい私持てないよ」彼女は膨れる。
ああ、そんな悲しいこと言わないで。
ああ、そんな表情しないで。
彼女を見たくなくて僕は空を見上げた。
ああ、
あれが、本物。
戻れたら、いいのに。
戻ってくれたら、いいのに。
それこそが僕の求める至高の作品。
ああ、描きたい。
君を、描きたい。
「まあ僕が半分持ってあげるから心配しなくていいよ」
いつか取りにおいで。
私の心は泣いていた。
いつも彼はそうだ。絵のことばっかり考えてる。
白いキャンバスがあらゆる色で満たされるのを追いかけてる。
どうするの?
もし私が、この恋は永遠じゃないといったら、どうするの?
聞きたい。
ああ、私を見てそんな顔をしないで。
ああ、ジュースが落ちたわ。もったいない。
だってこれはあなたが望んでいたことでしょう?
私はあなたの思ってることは何でもわかるのよ。
交わした言葉はちょっとでも、感じることはできるんだから。
でもやっぱり狭くて狭くて、逃げ出したくなったから。
そう、私にはこれしかできない。
この、色では表現できないほど澄んだ青い空の下、私ができること。
私にしかできないこと。
表現。
華麗に、
鮮やかに、
揺れて、
傾き、
また揺れて、
風が、なびかせる
私を、
吹いて、
艶やかに見える髪が
絡まることなく
幾度となくたなびいて
そして
消えて、
消えているのに、なくならなくて
また、揺れて、
ありがとう。
そして、さよなら。
ずっと、ずっと一緒だよ。
僕は幸せだった。
ずっとこの光景を目に焼き付けたいと思った。
作品の一部として僕も入っているんだね。
離さない。
こうなることは、わかっていた。
美しい。
そう、これが美しいの定義。
元の形に戻ったのだ。
ルービックキューブも色が揃った状態が最も美しい。
一度遊ぶと戻せなくなる。それはいつも僕にとって苦痛だった。
洋服も、ペンも、ノートも、あるいはこの地球だって使えばどんどん汚れていく。
どうしてすべてが、元のままでい続けられないのだろう。
人間だって同じだ。
明らかに生きている状態は不自然なのに。あたかも自然であるかのように振舞う。
これが正常なんだ。
これが、美しいんだ。
そう僕は思っている。
そして――
自然に、
身を任せて、
僕は彼女とダンスを踊った。
永遠に、一緒に。