ヘッドマウントディスプレイ
会社が手配してくれた車で渋谷まで行き、あとは山手線を使った。
秋葉原に行くことは、鹿児島を発つ前から決めていた。
でも、AKB48のライブを見るためでもなければ、メイドカフェで「お帰りなさいませ、ご主人様」なんて甘い言葉を聞くためでもない。十年前、僕に売れ残りのパソコンを押しつけようとした店の現状を知りたかったのだ。
秋葉原の変貌ぶりは、テレビなどで知っていた。でも、これほどまでだとは思わなかった。
表通りもそうだが、裏通りの変わりようには驚いた。降りる駅を間違えたんじゃないだろうかと本気で思ったほどだった。
PCパーツという文字を掲げた看板は、いくつもあった。でも、僕の記憶の中にある景色を見つけだすことはできなかった。
「これを時代の流れというんだろうな」不動産業に従事しているPは、このあたりが変わっていく様子を、自分の目で見ていたらしい。「パソコンなんてどこでも買える時代になっても、自作したいと思う人間はいる。でも、そんな絶滅危惧種のような連中を相手にした商売は、ネットでしか成り立たない。時流に乗ることができなかったあのショップの経営者は、閉店投げ売りセールの途中で、姿をくらましてしまった。噂によると、海外逃亡の途中で消されたらしい」
結末は、まるで刑事ドラマ。それを冷静な口調で言ったPは、そのあと、あらかじめ用意していたようなことを言った。
「ちょっと行きたいところがあるんだ。付き合ってくれ」
普通の人間には縁のない会員制のクラブのようなところに連れていってもらえると思ったが、違った。彼が向かったのは、家電量販店の映像機器売り場だった。
「これだよ。俺が欲しいのは」
それは、僕も知っている商品だった。
ヘッドマウントディスプレイ。簡単に言えば、眼鏡のようなものを使って、大画面を体験できる装置。ネット情報によると、仮想画面サイズは、750インチのスクリーンを、20メートル離れたところから見たのと、ほぼ同じ。
「試してみてもいい?」
Pは、近くにいた若い女店員に了解を求めた。
もちろん断られるはずがない。彼女はそれを売るために、もしくは、その製品を体験してもらうために、そこに立っていたわけだから。それにPは、イケメンなのだ。
「ど、どうぞ。こちらにお掛けになってください」頬を赤らめた彼女は、Pをリクライニング椅子に誘導した。「お客様の視力に合うように、調整いたしますので」
紺のスーツ。ゴーグルのような形をしたヘッドマウントディスプレイを、頭に装着したPの姿は、SF映画から飛び出してきた産業スパイのように見えた。
調整に要した時間と、Pがそれを体験していた時間は同じ位だった。
「すげーぞ、これ、リアルもリアル」
約三分間、体を左右に振ったり、のけ反ったりしていたPが、ヘッドマウントディスプレイと、ヘッドホンを外して、僕の頭に乗っけた。
担当者を探したが、接客中だった。
ピント調節ぐらいなら自分でできるだろう。
装着したとたん、くっきりとした3D映像が目に飛び込んできた。どうやらPの視力は、今でも左右ともに1・5らしい。
さきほどの、Pの奇妙な動作の理由が分かった。
流れていた映像は、スパイダーマンの映画。ぶつかりそうになる対向車を避けながら、暴走する敵のトラックを追いかけているシーンだった。
確かにPの言ったとおりだった。映画を見ているというより、自分自身が映像の中にいるような錯覚を覚えた。
「技術の進歩は早いな。一号機とは比べものにならないくらいに進化している」
と言って、在庫の確認までさせたPだったが、結局買わなかった。店員が横を向いた隙に、僕が耳打ちをしたからだ。
「もうすぐ次の機種が出る。こんどの奴は、ワイヤレスらしい」
確実に売れたと思っていたのか、店員は、がっかりしたような表情を見せた。しかし、Pはクールな声で「新型が出たら、君から買うよ。名刺をちょうだい」と言った。
名刺を受け取ったPは、今度は自分の名刺を店員に渡した。そして「じゃあ、電話を待ってるね」と言って小さくウインクした。
「相変わらずだな、お前」タクシーを待ちながら、Pの脇腹をこずいた。
「何が?」しらばっくれるP。
「女を見ると、顔つきが変わるところ。すぐに電話番号をゲットするところ。女に関しては、なんでも利用するところ」
「なんだ、そんなことか」そのあとPは、昔言っていたセリフを口にした。「可能性を広げるための努力は惜しまない」
僕たちがよく行っていた喫茶店はあったが、店名が変わっていた。
「知っていたのか?」店の前で訊くと、Pは「ああ」と答えた。「お袋さんの具合が悪くなって田舎に帰ったらしい」
カウンターが七席。四人がけのテーブルが一つ。ウナギの寝床のような細長い店。客は誰もいなかった。
「どうする?」Pが訊いた。
気兼ねなく話ができるのは、ファミレスだが、僕たちの指定席だった窓際のテーブルが空いていた。
「じゃあ、満席になるまでいようか」ということで、ブラインド越しに西日が差し込む席に腰をおろした。
店内はほとんど変わっていなかったが、名物だったサラダとスパゲッティがメニューから消えていた。
カウンターにいたオーナーらしい初老の男性に「キリマンジャロ、ふたつお願いします」と言ったPが、ブラインドを指でなぞりながら「本当に明日帰るのか?」と言った。
何気なさを装った口調だった。Pはこんな訊き方はしない。単刀直入に訊く。「もちろんだよ」と答えて反応をみた。
「もう少し居たらどうだ」視線を外したままだった。
僕と別れるのが、嫌なのだろうか。もっと話がしたいのだろうか。それならそうと、はっきり言えばいいのに、水くさい。「どうして?」
「お前と、もう一度話をしたいという奴がいるんだ」
がっかり半分、期待半分。もう一度ということは、昨日か今日、僕が会った人間に限られる。あの社長だったら、帰るのを伸ばしてもいい。
「だれ?」と言ったところで、気づいた。Pは相手のことを、会いたい奴と言っていた。つまり僕に会いたいと言ったのは、あの社長であるはずがない。
「ホテルの御曹司」
それを聞いた瞬間、僕の口から「やっぱり明日の昼一番で帰る」と言う声が漏れていた。