社員食堂にて
その日僕たちが迎賓館にいたのは、一時間ぐらいだった。
「すげーな、おい」会長を乗せた車が見えなくなると、Pが興奮した声で言った。「あの部屋にいた時間は、平均の四倍だぞ。それに、自分の生い立ちを、あんなに詳しく語ったことは一度もないんだ。スケジュールが空いていたら、絶対に話は夜中まで続いていた。よっぽど、お前を気に入ったみたいだな、うちの会長」
でも僕には、一時間は長すぎた。一言で言えば、ありがた迷惑。
話の途中で、削り立ての鰹節に味噌とネギを加え、それに熱いお茶を注ぐ「茶節」という飲み物を作ってくれたが、朝食抜きの体には、何の足しにもならなかった。
僕の場合、成功するためのノウハウを伝授してもらうより、空腹を満たすことの方が、優先順位が高い。それに頭の片隅では、僕を待っている美しい社長の顔が、ずっとちらついていた。話が一秒でも早く終わりますように、と願いながら聞いていたのだ。
「社長が待っておりますので、案内いたします」
僕たちと一緒に、会長を見送った第二秘書が、そう言ったとき、開放感を覚えると同時に、高級レストランでの食事を想像した。
これが最初から分かっていたら、途中で洋服を買って、着替えてくるんだったのに、と本気で後悔したのだが、食事の場は社員食堂だった。
僕たちが入室すると、すぐに白衣姿の社長が姿を現した。
「今日はソバの日です。ザルと丼、どちらがお好みですか?」
いきなりで面食らった。
美人は、何を着ても似合うもんだな。こんなスタッフが一人いるだけで、売り上げは倍になるのに。そんなことを考えながら社長を見ていたからだ。でも僕は、そんなことはおくびにも出さずに「温かいソバでお願いします」と答えた。
僕の家では、ざるソバは食べない。ソバと言えば、丼物と決まっていた。反射的に出た言葉だった。
「おソバの具は、何に致しましょうか」
社長は、食堂の店員のような口調で訊いた。
手間がかからないのは、山かけソバだと祖母が言っていた。でも、その材料が用意されていないと、相手に恥と迷惑をかけることになる。
「そこはお任せします」と答えると、横にいたPが「じゃあ、それをふたつ」と言った。
会長が淹れてくれたコーヒーは、甘ったるいだけで、美味くもなければ、不味くもない中途半端な代物だった。だから「もう一杯いかがですか」と言われたとき「いえ、結構です。こんどは、お茶をお願いします」と言ってしまったのだ。
しかし、天ぷらソバは違った。お代わり可能なら、無理しなくても、あと二杯はいけると思った。
カラリと揚がった大ぶりのエビ。見事な切り口のなると。細く切った青ネギ。ソバはもちろん、出汁も、見た目も一級品だった。
「近くの有名店から、取り寄せたんじゃないんですか?」
食後にでてきたそば湯を飲みながら、お世辞も含めて言ったのだが、社長は真面目な顔で「このあたりの老舗よりも、ずっと評判はいいみたいです」と答えた。
ということは、ここにはプロの調理人がいるということになる。そのことを言うと、社長は口元に笑みを浮かべた。
「プロは、一人もおりません」そのあと「でも、それに近い人間なら、何人もいます」と言った。
これが、どういう意味だか分かりますか、と言われたような気がした。その言葉の意味を考えているうちに、一繋がりのストーリーみたいなものが浮かんできた。
「つまり、食の研究に取り組んでいる部署があるということですね」とりあえずそう言ってみた。社長は、何も言わなかった。でも、小さくうなずいた。僕の言葉に感心したようにも見えた。調子に乗った僕は、そのあとをつづけた。
「不動産業と食は、直接繋がらないと思うんです。となると、御社は、多角経営をしている、あるいは目指している、ということにもなりますが……」
「ニュアンス的には、そうなるのかもしれません」Pの斜め前に座っていた社長は、僕の方に体を向けると、言葉を選ぶようにして言った。「もしよろしかったら、あなた様のおっしゃる多角経営とはどのようなものか、お聞かせ下さいませんでしょうか」
まさか、社長の口から、あなた様という言葉が出てくるとは思わなかった。でも、ここで、あなた様は、やめてくださいなんて言うと、僕自身が、意識過剰だと思われるかもしれない。あなた様を無視しすることにした僕は「参考にならないと思いますが」と前置きしてから言った。「借り手の商売繁盛の手伝いをするためだと思います」
「なるほど」社長は微笑んだ。「できましたら、もう少し、具体的な事例で教えていただけますか?」
「そうですね」と言って、まだまとまっていない次の言葉を整理しようとしたところで、Pが口を挟んだ。
「お前の言うとおりだ。今どきの不動産屋は土地の売買や、不動産物件の管理だけじゃ食っていけない。顧客の商売の手助けをすることが、自分の会社の繁栄に繋がる」
社長との質疑応答を楽しむつもりだった僕の気持ちが、急に萎えた。しかし、会話の邪魔をされたからではない。
会長の用が終わったら、すぐ秋葉原に行き、その後、昔お世話になった喫茶店のマスターに会いに行く。自分で決めた計画を忘れていたことに気づいたからだ。
いつの間にか、窓の外の太陽は西に傾いていた。




