謙遜の弊害?
迎賓館行きがなかったら、社長との時間がたっぷり取れたのに、という気持ちが、どこかにあったからだろう。つい「で、俺が拘束される時間は、どれくらいなんだ?」というセリフが漏れてしまった。
「おいおい、いくらなんでも、その言葉はないだろう」Pは呆れ返った顔で僕を見た。「会長を慕っている人間に聞かれたら、袋だたきにあうぞ。一分でもいい、会長に会いたい。そんなふうに願っている人間が、どれだけいると思う?」
いかにも秘書が言いそうな言葉。がっかりした僕は、 心の中でつぶやいた。
叩きのめされたとしても、俺はやっぱり、社長の方がいいな。それから「会長のファンが何百万人いたとしても、俺には関係ないね。興味もない」と声に出して言うと、Pは、小さく笑った。
「確かに、そうだよな。今のお前にとって、うちの会長は、赤の他人に近いもんな」それから彼は、真顔になってつづけた。「殆どの人が十五分程度で出てくるらしい。それくらいなら我慢できるだろう」
十五分という時間に、違和感を覚えた。迎賓館という言葉が持つイメージと、一つに繋がらなかったからだ。
「そんな中途半端な時間で終わるセレモニーって、どんなことなんだ」
だが、Pは両手を広げて、そんなこと知らないよ、というようなジェスチャーをした。
「秘書のお前が、知らないわけがないだろう」
「誰でもそう思うだろうけど、本当に知らないんだ」
僕は少し考えてから、質問した。「ひょっとすると、お前は、迎賓館に行ったことがないんじゃないのか?」
「大当たり。実を言うと、うちの社長もまだなんだ」
その言葉に、俄然、興味が沸いてきた。これでPに恩返しができると思った。僕は頭に浮かんだことを伝えることにした。
「ものはついで。お前も一緒に、迎賓館とやらを見に行こう」
当然喜ぶと思った。でもPは、とんでもないというように首を振った。
「俺はいい。遠慮する」
いつ何時、何が起きるか分からない。だから、美味いものから先に食うんだ。と言っていたPらしくもない返事だった。
「どうして?」
「この件に関してだけは、楽しみは後にとっておく、ということにしておきたいんだ。頼むから、俺の前で迎賓館で見たことや、感じたことは絶対に言わないでくれ」
こういうとき、僕は相手の気持ちを尊重することにしている。しかし「分かったよ」と言ったあとで、自分の癖を思い出した。後から、どうこう言われたくなかったので、確認のために言った。
「でも、俺の場合、寝言で言ってしまうかもしれない。そのときはゴメンな」
「やめてくれよ」Pは珍しく嫌な顔をした。「だったら、今夜のお前はホテルで寝ろ」
そう言われたときの言葉を、用意しておいた。
「それは絶対だめ。東京までやってきたのは、お前と話をするためなんだ。それに迎賓館に行こうと言いだしたのは、お前なんだぞ。俺にすれば、迷惑な話でしかない。でも、大丈夫。今日のように、朝まで語り明かせば、寝言なんて関係ない」
そんなことを話していると、受付の後ろのドアが開いて、制服姿の若い女性が出てきた。
「あと三分ほどで、会長と秘書が戻って参ります」
今日の会長は、紺色の作務衣を着ていた。僕的には作業着よりこっちの方が似合っているような感じがした。
「ささ、こちらにどうぞ」」
挨拶もそこそこに案内されたのは、アンティーク調の家具で統一された会長室。
大型テーブルを挟んで、僕の前に会長。その後方に、かしこまった表情で控えているのは、同じ制服を着た二人の女性とP。
会長は、僕を待たせたことを謝ったあと「あなた様の貴重な時間を、どれくらい頂けますでしょうか?」と言った。
あなた様は、やめてください。あれは昨日で終わったはずです。とここで指摘すると三人の秘書、特に、Pに不快感を与えてしまう。そう思った僕は、さっきの話を参考にして「十五分程度なら」と答えた。
「十五分、ですか?」会長は、意外そうな表情を浮かべた。
しまった、と思った。
十五分というのは、長くても、それぐらいという意味だったようだ。僕のような人間なら、三分でも長すぎるのかもしれない。
「でも、そこは、お任せします」
あわてて付けくわえると、会長は「ありがとうございます」と頭を下げた。
これで、Pに迷惑はかからない。
ほっとしたところで、先ほどPに言ったセリフを思い出した。彼は嫌だと言ったけど、僕一人だと何も話すことがない。第一、僕を誘ったのはP。この際、責任を取ってもらおう。
会長があのDVDを宝物のように思っているのなら、しぶしぶながらでも承諾してくれるかもしれない。
会長に視線を向けてみると、何か言いたそうな顔をしていた。一代で財を成した人は、勘が鋭いはず。僕が何を言おうとしているのか、感づいている可能性が高い。だったら、先手を打ってやろう。重く聞こえないように、声を少し高くして「一つだけお願いがあるんですが」と言ってから、こいつも一緒に、とつづけようとしたが、この場にそぐわないような気がした。
「できれば、第三秘書も一緒に招待してもらえませんでしょうか」
自分では適切な言葉を選んだつもりだった、だが会長の顔に、再び戸惑いの色が浮かんだ。
あ、言わなきゃよかったと後悔した。一言で断られると思った。しかし、事態は僕が想像したものとは違う方向に進み始めた。
「私とですか?」
きょとんとした顔で、そう言ったのは、受付の女性だった。
「え?」
一瞬わけが分からなくなった。今僕は間違いなく、第三秘書と言った。なのに、どうして、彼女が?
昨日もらったPの名刺には、第三秘書の文字があった。だから、どんな仕事をしているんだと訊いたのだ。
Pは、雑用係みたいなことをやっているんだと答えた。
だが待てよ。
あのときの彼は、なぜか言いにくそうな声で言っていた。ひょっとすると、彼は、会長専用の運転手なのかもしれない。でも、運転手のどこが悪いというのだ。ロールスロイスの運転もできるし、高級料亭にも、大手を振って出入りできるというのに。
そこで僕は、さっきの若者たちが、Pを部長と呼んでいたことを思い出した。そういえば、プロジェクトEDOに関わっているとも言っていた。だが、今はそんなことはどうでいい。この場をどう納めるかだ。
いずれにしても、第三秘書という役職名を出したのは、僕。となれば、自分の手でなんとか収集をつけてやろう。
しかし、この場をうまく切り抜けられる方法を即座に考え出すのは、到底無理。こうなれば、事実を元に、正面突破するしかない。
僕は、Pに顔を向けた。そして、本気で怒っているような声を出した。
「本当はどっちなんだ。第三秘書? それとも、部長?」
「実を言うとな」Pは指先で頭の後ろを掻きながら「昨日は、古い名刺しか持っていなかったんだ」と言ったあと「でも、そんなこと、どうでもいいじゃないか」と言った。
開き直ったような態度に、無性に腹が立った。
肩書きを偽るのは、文書偽造罪には該当しないかもしれない。でも、ある種の詐欺行為だぞ。
心の中で怒鳴ったとき、無理のない解決法が見つかった。
名刺を受け取ったのは、気心がしれた僕ひとり。
手の込んだ冗談だったんだよな。と僕が言い、Pが、当たり前だろう。と答えるだけでいい。なんとか、これでごまかせそうだ。
落としどころを見つけて一安心したところで、部屋の空気が、妙に和んでいることに気づいた。
どうしたんだ、この雰囲気。逆なんじゃないの? ここは怒るところでしょ。呆れるところでしょ。
わけが分からず、辺りを見回す僕に近づいてきたのは、会長と一緒に帰ってきた女性だった。
彼女は丁寧に腰を折って、自分の名刺を差し出した。
「この部屋には、三名の秘書がおります。ちなみに、私は、第二秘書でございます」
彼女が言うと、もう一人の彼女は、口元を押さえてクスクス笑い出した。
僕にその笑いの意味が分かったのは、それから、十数秒ほどしてからだった。
「ったくもう」僕はPを睨んで、思いっきり怒鳴ってやった。「お前に謙遜は似合わない。他人に迷惑をかけるだけ。これからは、胸を張って、正々堂々と第一秘書だと名乗るようにしろ」
しかし、Pは苦笑いを浮かべただけだった。




