マブダチの効用
社員食堂にいたのは、男三人、女四人の七人。
食事は終わったらしく、コの字に並んだテーブルを挟んで、飲み物片手に楽しそうにお喋りをしていた。
全員作業服を着ていたが、なぜか、ひとつとして同じデザインはなかった。素材も色もバラバラ。上下色違いの作業服を着た社員もいた。
「申し訳ありませんが、三分ほど時間を頂きたいのですが」
Pの声に会話がぴたりと止み、全員がこちらに顔を向けた。
「あ」
一人の女の子が驚いたように腰を上げると、他の社員もバネに弾かれたように起ち上がり、あっという間に、壁に沿って整列した。そのてきぱきとした動作は、見ていても気持ちのよいものだった。
「いらっしゃいませ」
だれも号令はかけないのに、声を合わせて言った。
全員が初々しい笑顔を浮かべて僕たちを見ていた。しかし、どこかぎこちなさが残っているようだった。ひょっとすると、今年高校を卒業したばかりで、まだ世間慣れしていないのかもしれない。
「食事中に誠に申し訳ありませんが」Pが遠慮がちに言った。「皆さんに紹介したい人がいるんです」
その口調に、苛つきを覚えた。Pらしさが全然なかったからだ。
お前のせいで、場の雰囲気が壊れたじゃないか、と言ってやりたかった。
僕たちに気づく前の七人の表情は、遠目にも明るかった。なのに今は無表情。俯き加減で、盗み見るような目を、Pに向けていた。
「なんだよ、おい」気がついたときは声が出ていた。「お前、スーツを着ると、人間まで変わってしまうのかよ」
真ん中の女の子が、驚いたように目を丸くした。
Pの顔から、一瞬表情が消えた。
しまったと思った。勇み足では済まされない失敗をしてしまった。上司の立場で、部下の前で、叱責されるほどの侮辱はないのかもしれない。
これで、Pとの仲も終わったな。と覚悟したのだが、彼は明るい声で笑い出した。
「確かにそうだな」納得したように言った。それから僕の手を取って「ありがとう。おかげで気持ちが吹っ切れたよ」と言った。「お前の言うとおりだ、俺らしさがなかったよ」
Pは自分の気持ちを、パッと切りかえる時がある。
僕は慣れているが、この子らは戸惑っているだろうな、と表情を窺ってみると、みんなの顔が輝いて見えた。息を止め、次の一言を待つ表情でPを凝視していた。
その視線を受けとめたPが、ニヤリと笑った。そして自分の鼻先を拳でちょこんと殴った。開き直ったときに、よく見せていた仕種だった。
「紹介したい奴っていうのは、もちろん、こいつだ」そこでPは、僕の脇腹にパンチを入れる真似をした。「俺のマブダチだ。会長が帰ってくるまで、ちょいと待たせてくれ」
背の低い男の子が、眉をひそめて首を傾げた。
「マブダチ?」
やれやれと思った。世代間ギャップという単語が浮かんできたからだ。マブダチの意味が通じないらしい。
三十になったばかりだというのに、俺はもう中年の仲間入りかよ。と思っていると、その子が大きな声で「やっぱり、あの噂は本当だったようだぜ」と言った。
「どうして?」女の子が訊いた。
「見て見ろ」男の子はPに視線を向けた。「部長の目つきが、いつもと違う。やっぱり隠していたんだ」
一瞬の沈黙の後、歓声が上がった。
「キャッホー」
と同時に、列が一挙に崩れた。
「やっぱり、そうだ、やっぱり、そうだ」女の子四人は、歌うような声でそう言いながら、肩を抱き合ってぐるぐるぐると回りはじめた。
何が起こったのか分からなかったが、彼らの視線が、Pだけに注がれているところをみると、僕を歓迎するための踊りではなさそうだった。
笑いながら、それを眺めていたPが「お前ら、一体、どうしたんだ」と訊いた。
体格の良い男の子が、嬉しそうな声で言った。
「部長も、僕たちと同じようなことを、やっていらっしゃったんですよね?」
質問と言うより、確認したという感じだった。
「何をだよ?」
「これですよ、これ」男の子は、右手でバイクのエンジンを吹かす仕種をした。
「ブンブンブン、ブブブン、ブン」
一人の女の子が、排気音の口真似をすると、たちまちブンブンブンの大合唱が始まった。
「何の騒ぎですか?」
背後で声がした。たしなめるような口調ではなかったが、水を打ったように静かになった。
反射的にPを見た。
笑みを浮かべたままだった。とりあえず安心した僕は、声の感じから、声の主を想像してみた。
年齢は、たぶん僕たちと同じか、それより少し下。白い肌の知性的な女性。具体的に言えば、受付担当の女の子。
そんなことを考えながら後ろを振り向いた。
予想した通りの女性。服装だった。黒のタイトスカートとベスト。少し胸の開いたシルクのブラウス。アクセサリーは、小さなイアリングだけ。
しかし、予想していなかったものがあった。顔立ちと、スタイル。見る者を圧倒する雰囲気。
「お待ちしておりました」
その女性は、ほとんど直角に腰を折った。その仕種にも、洗練された美しさがあった。
この人が、会長の第一秘書だな。反射的に、そう思った。
僕は、丁寧なお辞儀を返した。
「このたびは、お招きいただきまして」と言ったところで、Pが「やめろよ」と言った。「そんな堅苦しい挨拶、お前には似合わない。舌を嚙むぞ、血が出るぞ」
クスッ、
元の位置に整列していた七人の中の何人かが、笑った。
近くまでやってきた女性は、もう一度頭を下げた。
「遠路はるばるお越し下さいまして、ありがとうございます。私、社長の○○と申します」
とっさに咳き込んだ振りをしたのは、香水の甘い香りに頭がクラッとしたのと、会長が社長を兼務していると思い込んでいた僕には、返す言葉がなかったからだ。
「どうぞ、これを」
テンポの良い足音と共に、冷水が入ったグラスが差し出された。最初に僕たちに気づいた女の子だった。
「ありがとうございます」と言って、グラスを受け取った僕の肩越しに、社長がPに訊ねた。「お食事は、すませたの?」
「いえ」
「分かりました」社長は即座に言った。「私もご一緒させていただきます。連絡を待っています」
それだけ言って、ドアの向こうに消えた社長を見送りながら、小声で訊いた。
「お前の会社の業績が良いのは、あの社長のおかげだろ?」
「こういうところは、お前も人並みだな」
「どういう意味?」
「社長もやり手だけど、会長の稼ぎは、一桁以上違うんだ」と、そこで着信音が鳴った。「そろそろ会長が着くらしい。せっかくだから、出迎えに行こうか」