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名前負けした野菜屋のおばちゃん

その声が言った通りだった。

 痛くもかゆくもなかった。頭の中で、何かが膨らんだような気がしただけだった。

「何があったの?」

 次の日、母と祖母が異口同音に訊いた。

「何も変わらないよ。僕は僕のままだよ」

 だが二人は僕の変化をはっきり感じ取っていたらしい。ずいぶん経ってから祖母が言った。

「そりゃ、びっくりしたよ。ある日を境に性格が180度変わってしまったんだからね。でも、空を見上げる癖が止まったわけじゃない。語りかける代わりに、何も言わずに空を睨むようになった。まるで誰かがあんたのスイッチを切りかえたみたいだった。本当に覚えていないのかい?」


 風呂から上がった僕は、洗面所の鏡に映った自分に無言で語りかけた。

「あの後だったよな、空から声が聞こえてくるようになったのは。色んな声が聞こえてきた。男の声、女の声、子供の声、お婆さんの声」

「ああ、覚えている。時代がかった声。優しい声、笑ったような声」

「だったら、分かっているはずだぞ」

「それが、今回はちょっと違っている。勝手に物語が進んでいく。俺が思ってもいない方向に、ころころころころ転がっていく」

「言い訳だったらやめろ。分かっているよな、俺が何を言いたいか」

「もちろん分かる。最初は、俺もそうじゃないかと思っていた。でも違う。絶対に違う。妄想なんかじゃない。潜在意識でもない」

「まだ、そんなことを言っているのかい」

「意地を張っているわけじゃない。何かが違うんだ。何かがおかしい。何が、どう違うのか。何が、どうおかしいのか。それを知りたいから、いろいろ調べようと思っているんだ」

 そんな自問自答を繰り返すうちに、今日の新聞を読んでいないことに気がついた。

「じゃあ、この件は、いずれ、また」

 僕は鏡の中の自分に、そう言って洗面所を出た。


 新聞を広げて、折り込み広告に手をかけたとき、指先がチリチリしたような気がした。でもそのときは、気にもとめなかった。静電気、と言う言葉がちらっと頭をかすめただけだった。

 昔からそうだが、僕は新聞を読むより先に折り込み広告を種類別に分ける。

 裏白チラシ。食品関係。家電と車関係。それ以外のチラシは「その他」でひとまとめ。

 しかし、目的があって分類しているわけではない。祖母と暮らしていたころの癖が今も抜けきらないだけなのだ。新聞を見終わった頃には、チラシは配達時よりごちゃごちゃになっている。

 カーペットに広げた家電量販店の大判チラシを、両手で押さえるような恰好で眺めていたとき、指先にチリチリしたものを感じた。

 右手の指先に目をやると、ICレコーダーの写真があった。日替わり特価の文字の下に『本日五台限り』とあった。


 家電量販店を覗くのは久しぶりだった。

 時間からすると、一台も残っていないと思ったが、5台とも売れ残っていた。

 出かける前にネットで調べてみると、一世代前の製品らしかった。でも、僕が持っている十年前の機種よりはるかに高性能なICレコーダー。

 USBダイレクト接続。充電機能付き。約3分の充電で1時間程度の録音可能。デジタルV・O・Rも付いている。FMラジオも聞ける。4ギガの内蔵のメモリーに、最長1000時間の録音。

 ビデオカメラやコンピューターと違って、ICレコーダーの性能は来るところまできている。どうせ自分の声を吹き込むだけ。僕にはスペックオーバーだが、値段はお買い得。

 近くにいたスタッフに、値段を確認した僕は、商品の写真が貼り付けてあるカードを持ってレジに向かった。

 こんなに安くして採算が取れるのだろうか。客寄せ用にメーカーに無理を言ったんじゃないだろうな。

 そんなことを考えながら、商品とおつりを受け取ったところで、背中をポンと叩かれた。

「いよぉ、色男」

 びっくりして振り返ると、人の良さそうなおばちゃんが、にこにこ顔で僕を見ていた。どこかで見た記憶はあった。でも、名前が出てこない。

「彼女はどこ?」

 おばちゃんは、広い店内を見回す真似をした。

「なんだよ、もう。びっくりするじゃないですかぁ」

 無農薬野菜をスーパーに卸しているおばちゃんだった。いつもはジャージ姿。洒落た服装で化粧をしているのを初めて見た。

「これからお見合いですか?」

 冷やかしで言うと、おばちゃんはニッと笑った。

「それは、先月すませた。昨日がお輿入れ」

「オコシイレ?」

 僕が首をひねると、おばちゃんはバックから名刺を取りだした。

「何かいい名前がないかなぁ。お礼はたっぷりはずむから」

 住所と電話番号の上にあった名前に、あやうく吹き出すところだった。

 通天閣の守り神のビリケンさんが、日焼けサロンに通い続けたようなおばちゃんの顔とまったく結びつかない。

 山口百恵。

 水商売に入ったのだろうか。いったいどんな店が雇ってくれたのだろう。それにしても恐れ多い名前を選んだものだ。

「あのぉ」と僕は言った。「この源氏名を変えたいっていうことですよね」

「だよね、だよね、だれだってそう思うよね。その方が自然だもんね」おばちゃんは困ったような笑顔を浮かべながら言った。「でも、本名になってしまったんだから、どうしようもないわけ。あたしも、さんざん迷った。仲人さんに文句を言った。どうしてよりによって見合いの相手が山口さんなんですか。でもね、こうも思ったわけ。これを逃がすと嫁の口がなくなる。というわけで思い切ったんだけど、ああ、どうしよう」

 本人は真剣に悩んでいる様子だったが、それが余計におかしかった。

「無農薬野菜専門の店を出すんですか?」

僕は笑いながら話題を変えた。

「ピンポーン」

 一瞬、トリエステを思い出した。でも、まったく声質は違っていた。世の中には、ピンポーンで返事をする人はいくらでもいる。

 僕は改めて名刺を見た。僕のアパートから歩いて10分ぐらいのところだった。

 開店予定日を訊くと、おばちゃんは懇願するような目で僕を見た。

「今夜からでもやれるんだけど、気に入った店の名前が見つからないもんだから……」

 話によると、居酒屋のあとをそのまま引き継いだらしい。

「生野菜だけじゃなくて、おでんもやるの。自分で言うのもなんだけど、これが、またまたおいしいの。こんどの旦那が惚れたのは、もちろんあたしの料理。店を出せと言ったのも、こんどの旦那。がんばらなくっちゃね」

 すっかり笑顔に戻ったおばちゃんに僕は「良い名前が浮かんだら、店に伺います」と言って、レジを離れた。


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