会長の心遣い
会長は時に小さく、時に大きくうなずきながら、僕の話を聞いていた。
しかし、話が終わると、小さな声で「なるほど」と言っただけだった。
でも僕は、がっかりしなかった。最初から感想なんて期待していなかった。何しろ十年前の話。今さら、どうすることもできない。、
「では、そろそろ」
Pがテーブルのボタンを押すと、芸者の一団が現れ、唄と踊りのお披露目がはじまった。
浮き世離れした三味線の音色。艶やかな舞姿。着物のこすれる音。ほのかに香るおしろいの匂い。
テレビや映画の中で何度か見たことがあった。でも、目の前で見るそれは、まったく次元の違うものだった。
しかし、時間の経過とともに、僕の興味は別のものに移っていった。
場の雰囲気に慣れるに従って、芸者一人一人の着物の色や柄が違うように、彼女らの顔つきや体型も、それぞれ異なっていることに気づいたからだ。
芸者にも格付けとか、肩書きのようなものがあるのだろうか。給料体系はどうなっているのだろう。時給だとすると、いくらぐらいなんだろう。一番の高給取りは、三味線? それとも踊り手? 年齢や経験も、加味されるのだろうか。
そんなことを考えているうちに、派遣社員登録中に、担当者から言われたことを思いだした。
最初は、時給720円からのスタートになります。
目の前の雰囲気が一変したような気がした。
改めて目で数えると八人。芸者と言っても、ある意味、労働者。自分で望んで入った世界なのだろうか。笑顔の下で、どんなことを考えているのだろう。
会長の横顔に目を移すと、別の考えが浮かんできた。
この席の支払いは、どれくらいなんだろう。一般サラリーマンの数ヶ月分に相当するんじゃないだろうか。ロールスロイスは、一リッターで何キロ走るんだろう。億万長者と呼ばれる人たちの思考回路は、僕とはまったく別物なんだろうな。
次々と湧き出すどうでもいいような疑問。頭の中が混乱してきた。
「いつも、昼間からこうなのか?」
会長が手洗いに立った隙に、芸者の背中越しに訊ねると、Pはにやりと笑った。
「もしかすると、夜の方が良かったのかな?」
「いや、そんなつもりで訊いたんじゃない」
と答えたものの、その後を続けるわけにはいかない。僕たちは芸者に挟まれていた。彼女らに蔑まれるのが関の山。
「ただ、ちょっとな」
と言って、間を持たせるためにコーラを飲もうとすると、右側の芸者が、僕の膝に手を置いて「ねえ」と言った。
「会長さんとは、どんな関係?」
自己紹介のとき、まだ修行の身でございます。とだけ言った芸者だった。もしかすると、十代かもしれない。
通常でも会話が苦手な僕。体をよじって、白いうなじを見せる芸者からの質問となれば「ええと」と答えるのが、精一杯。
「代わりに、俺が答えてやるよ」
Pが、笑いながら言うと、彼女はPを睨んだ。
「私たちの、じゃまをしないで」
「まったく、お前って奴は」
すかさずPが、冗談口調でつづけたところを見ると、二人は顔なじみらしい。
「何よ、お前だなんて、馴れ馴れしくしないで」
ふくれっ面を見せたその子の表情が、ぱっと笑顔になった。芸者に囲まれた会長が戻ってきたところだった。
「あらら」若い芸者とPのやり取りを、にやにや笑いながら見ていた年増の芸者が「もっと続けなさいよ、あなたたち。会長にも見せてあげて」とからかったが、若い芸者は「何のことかしら」と言って、体の向きを変えると、半分残っている僕のグラスにコーラを注ぎ足した。
昼間に宴席が設けられたのは、僕とPの間に積もる話があるだろうから、という会長の心遣いだった。
これからいくつかの会合があるという会長を玄関で見送ったあと、部屋に戻ろうとすると、誰かが僕の手を握った。
さきほどの若い芸者だった。
どきっとして、手を離そうとすると、さらに強く握ってきた。
「ねえ、ちょっと」歩みを止めた彼女は「ここを動かないで」と命令口調で言った。
何ごとがはじまるのかと思っていると、二メートルほど離れたところで振り返り、僕に視線を向けた。
品定めするような目に、なぜか心が騒いだ。
僕が横にいないことに気づいたPが、振り返った。
「おいおい、俺の親友をどうするつもりなんだ」呆れた表情でそう言ったが、途中から意味ありげな笑みに変わった。「さすがはお前だ。目が高い」
こんどの、お前という言葉に彼女は腹を立てなかった。
「でしょ」にこっと笑って、Pを見た。「この人がただ者じゃないってこと、一目で見破ったもん」
部屋に戻ると、新しい席ができていて、豪華な料理が並んでいた。
「いくら何でも、もう、腹には入らないぞ」
と言うと、Pは「お前の分はないから心配するな」と言った。意味が分からなかったが、少し遅れてやってきた年増の芸者の言葉で納得できた。
「お引き立ての上、このようなものまで用意していただきまして」
後から聞いた話によると、席に呼んだ芸者にも極上の料理を振る舞うのが、会長の流儀だった。
「僕たちは、もう少し残りますが、遠慮なく箸を付けてください。飲み物も自由に頼んでください」
直立不動の姿勢でPが言うと、芸者の一人が歌うような声で「いよー、色男。さすがは、会長の懐刀。次期社長は、あんたで決まり」と言ったあと「ま、冗談はこれくらいにして」と混ぜっ返し、それから、給食当番の挨拶言葉を口にした。
「では皆さん、手を合わせてください」そして、もう一人の「せぇのー」を合図に、全員が小学生のような声で言った。「イッタダッキ、マース」