記憶の中の、小さな間違い
目の前にとつぜん現れた絶景に対して、すぐさま感嘆の声を上げるタイプと、絶句するタイプに分けるとしたら、僕は絶対に後者のほうだ。
世界屈指の高級ブランド名に圧倒されてしまった僕の口が開いたのは、車が走り出してから、ずいぶん経ってからだった。
「いつも、この車に乗っているのか?」
「いや」Pは真正面を向いたまま首を振った。「会長用の車は六台あるけど、こいつには滅多に乗らない」それから追い越し車線に親指を向けた。「視線が、うるさ過ぎる」
確かに僕もそう思う。首都高速の左車線を制限速度で走るこの車を追い抜いていくほとんどのドライバーが、一旦スピードを緩め、羨ましそうな視線をこちらに向けてくる。 外から車内は見えない仕組みになっているらしいが、それでも横にぴったり並ばれると、僕の顔はひとりでにこわばっていく。
「本当は、タントで迎えに来るつもりだったんだ。あれなら小回りが利くし、乗り降りも楽だからさ。でも、会長がな」Pは嬉しそうに微笑んだ。「絶対にこれを使え、って言うもんだからさ」
一度会話を交わすと、僕の思考回路は昔の僕に切り替わった。
「さっきの言葉を取り消すよ」僕はPの肩を指先で突いた。「お前は、全然変わっちゃいない。それどころか、バカさ加減は、より進化している」
「その言葉を、そのまんまお前に返してやるよ」Pは、ちらりと僕に視線を送った。
「お前の、クソ真面目なところも、バージョンアップを繰り返していたようだな」前方に顔を戻したPは、片手でコンソールボックスを開けた。「大したもんじゃないけど、ちょっと目を通してくれ」
コンソールボックスには、茶色い封筒が立てかけてあった。
超高級乗用車。コンソールボックス。茶色い封筒。
その三つの言葉の組み合わせで、僕はある場面を思い出した。と同時に、僕の心音が、びくんと大きく跳ね上がった。
このあと、とんでもない幸福と、悪夢の両方が待ち構えている。そんな予感がしてきたからだ。
たぶん映画でみたシーンだったと思う。その映画の場合、封筒の中身は、何も書いていない小切手だった。
ギャングのボスが言う。
「坊やは、今日から大金持ちだ。それに、好きな数字を書き込んで、銀行へ持っていけ」
ひょんなことから、ボスの命を救うことになった脳天気な主人公が、訊ねる。
「上限は?」
「なあ、坊や」ボスはハンドルから離した片手を、主人公の肩に置く。「この車一台で、家が何軒建つと思う?」そのあとボスは、思い直したように助手席に目をやる。「それより、俺を誰だと思っているだ」
背高のっぽの主人公は、にこっと笑って、肩をすくめる。
「手足を縛られて、ドラム缶の中に隠れていた間抜けなおじちゃん」
「確かに、坊やの言う通り」グローブのようなごつい手でハンドルを叩いたボスは、大口を開けて笑い出す。ひとしきり笑ったあと、ボスは急に優しい目になる。「じゃあ、話を変えよう。あのな坊や、人の命というものは地球よりも重いんだ。特に、このおじちゃんの命は、そんじょそこいらの連中とは、比べものにならない。早い話、坊やは、地球滅亡の危機を救ったようなもんなんだ」
それが映画のトップシーン。主人公が手にした大金を巡るドタバタ劇は、ギャングの大ボスに成り上がった主人公が、荒縄で手足を縛られ、ドラム缶の中に投げ込まれたところで終わる。エンドロールは、軽快なディキシーランド・ジャズの演奏だった。
そんなことを思い出しながら、恐る恐る茶封筒を開けてみると、出てきたのは、五年分の長者番付。
たぶんPが付けたのだろう。一人の名前の上に、黄色い蛍光ペンで横線が引いてあった。
どの年も下位の方だったが、すべてに同じ名前が載っていた。
「うちの会長はな」Pが得意げな声で言った。「それをゼロから築きあげたんだぞ」
世の中には、一代で財を成し遂げた人が結構いる。その人が発明したもの、あるいは発見した製品や手法で、世の中の仕組みががらっと変わる場合もある。
発明のきっかけになった、出来事や発想。製品化するまでの苦労話。そのようなものには興味がある。しかし、その人が得た財産や資産なんて、どうでもいい。
億万長者の会長に、旅費を出してもらえたのは、ありがたい。もちろん、会ったとき、お礼の言葉は言う。でも僕は、大金持ちになる極意を伝授してもらうために、出てきたわけではない。東京までやってきたのは、Pに会うためなのだ。
「それよりさ」僕は話を変えた。「教えてもらいたいことがあるんだ」
Pは、渋滞がはじまった車線に目を向けたまま言った。
「何でもどうぞ」
「送迎係の女の子から聞いた伝言の意味が、分からないんだけど」
前方車両の赤いテールランプに合わせてブレーキを踏んだPは、独り言のように言った。
「つまり、あの日のことは、まだ闇の中ってことか」
その言葉で、Pが何を言いたいのか分かった。
僕は助手席のドアに背中をくっつけて、しばらく考えてみた。
あの日のことというのは、プロダクションのレッスン室のことに間違いなさそうだ。でも、どうしてPは、あの日の出来事が、僕の記憶の中から消えていたことを知っているのだろう。
「実を言うとな」と僕は言った。「プロダクションで、ハンディカムを構えたところまでは思い出したんだ」
「スゲーじゃないか」Pが高いトーンで言った。「どのあたりまで思い出したんだ」
僕は窓の外を眺めながら答えた。
「水着の女の子の胸元から、マドンナの胸元にいったところまで」
「ギヒヒ」Pは、彼独特の笑い声を上げた。「その場面で、また記憶が途絶えたっていうのも、お前らしいな」
次のインターで降りるらしく、Pはウインカーを上げてから、ちらりと僕を見た。
そして、何がおかしいのか、にやにや笑いながら「今のお前の記憶の中に、どうでもいいような、小さな間違いがある」と言った。「でも、それがあったからこそ、あの奇跡の映像が撮れたんだろうよ」
Pが何を言いたいのか分からなかった。しかし久しぶりに聞く、Pらしい言い回しに嬉しくなった。
十数年前の東京での二年間で、何回からかわれたのか分からない。でも、彼に悪気がないのは、分かりすぎるほど分かっていたから、僕は一度も腹を立てたことがなかった。
こんな場合、僕が怒った振りをすると、Pは喜んだ。たぶん、それは、今も変わらない。「なんだよ、その人を馬鹿にしたような目は」僕は思いっきりPを睨みつけた。「何が言いたいんだ。はっきり言えよ」
「ああ、言ってやるよ」Pは顎を少し突き出した。「あの日、プロダクションの生徒が着ていたのは、水着じゃない。あれは、レオタードというんだ」




