羽田着
「着きましたよ」
その声は、暗闇の中から聞こえてきたような感じがした。
またあの、宙ぶらりんの世界に迷い込んだのだろうか。
一瞬、そう思ったが、すぐに自分の勘違いに気づいた。耳を澄ますまでもなく、逆噴射の甲高いエンジン音が聞こえていた。
僕がいるのは飛行機の中。ここは羽田。何も見えないのは、アイマスクをしているから。しかも、目も閉じていたからだ。鹿児島空港を離陸した記憶がないのは、アイマスクを付けると同時に、眠りの世界に落ちたのだろう。闇の中から声が聞こえてきたと錯覚したとしても、何の不思議もない。と自己弁護で、心を落ち着かせた。
熟睡していたせいか、鹿児島から羽田までの約千キロを、わずか数十秒で移動したような感じがした。
ちいさなあくびをしたところで、ふと、思った。
任務とはいえ、わざわざ僕を起こしにきてくれた客室乗務員に、礼を言おう。
リクライニングシートに手をかけたとき、ある疑問が湧いた。
機体の揺れ具合からすると、まだ滑走路を移動中。客室乗務員は、飛行機が停止するまで、所定の場所に座っていなければいけないんじゃなかったっけ?
でも、今の声は確かに耳元で聞こえた。
だが、まてよ、あの客室乗務員の声ではなかったぞ。
しかし、聞き覚えのある声だった……
混乱しはじめた頭を鎮める最良の方法は、自分の目で確かめること。
僕はシートを起こした、そして、アイマスクを外して、声のした方に顔を向けた。
「よく眠れましたか?」
頭の中はさらに混乱した。
声の主は、赤いスーツだった。隣の座席で、にこやかな笑顔を浮かべていた。
目の前の状況が、理解できなかった。
まだ夢をみているのだろうか。
外の景色に目をやると、飛行機の窓の向こうに、羽田のターミナルビルが見えた。座席を通して体に伝わるジェットエンジンの回転。わずかに揺れる機体。どうやらここは、現実の世界らしい。
赤いスーツが、恥ずかしそうな笑みを浮かべた。
「無理だろうと思いましたが、乗れました」
眠りから覚めたばかりの僕の頭の中が、やっとまわりはじめた。羽田まで一緒に行きたいと言った僕の言葉を、真剣に受けとったらしい。
仕事とはいえ、その手際の良さに驚いた。と同時に、客の要望をそのまま受け入れる姿勢に感動を覚えた。
「よく間に合ったねぇ」
「びっくりしました。旅行会社の名刺を出すと融通がきくんですね」
その言葉の中に違和感のようなものを覚えた。僕は、少し考えてから質問した。
「旅行社に勤めて何年になるの?」
彼女の表情に困惑の色が現れた。視線が揺れるのが分かった。しばらく沈黙してから彼女は口を開いた。
「質問された場合は、きちんと答えなさいと言われていますから」彼女は背筋を伸ばした。「私たち、派遣社員なんです」
派遣社員?
あやうく、僕も派遣社員の登録をしているんだ、と言いそうになった。でも僕が登録している会社には、送迎部門なんてない。
もし、僕がハワイまでの旅行者で、向こうに着くまで一緒にお願いしますと言ったら、この子はついてきたのだろうか。できるものなら、僕もこんな部門を経験してみたい。
「どこなの、会社は」
彼女が口にしたのは、聞いたこともない外資系の企業だった。
「あの子も、そうなんです」少し離れた座席に、椅子を倒してアイマスクをつけた青いスーツが見えた。「たまたま、あちらを旅行中だった私たちが案内役に選ばれたんです。依頼主様には、いつもお世話になっています」
会話の中に、はっきりした地名や人名は出てこない。彼女の守秘義務に対する認識はずいぶん高そうだ。僕は、ふと浮かんだ質問をしてみた。
「僕が羽田まで一緒に、と言わなかったら、あのあと、どうしていたの?」
「お気を悪くなさらないでくださいね」彼女はそう前置きして、つづけた。「仮定の話はしないようにしています」
そう言われると、言葉がつづかない。
「では、私たちこれで失礼いたします」
シートベルト着用のランプが消えるのを待っていたかのように、赤いスーツが立ち上がると、青いスーツがすっと姿を現し、その横に並んだ。
「本日はありがとうございました」
僕に一礼した二人は、笑顔を残して通路の向こうに消えた。




