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では空港へ

 どうやら、地べた里庵で起きた現象が、また起きたらしい。

 あのときは、六時間分くらいの記憶が、20秒ほどでよみがえった。

 今回は30分程度の映像だったはず。はたしてその再生に、どれくらいの時間がかかったのだろう。 

 それを確認してやろうと、視線を動かしてみたが、視界の中に時間の経過を示すようなものを発見することはできなかった。

「依頼主様からの伝言を、もう一度申し上げましょうか?」

 青いスーツが、伺いでも立てるような声で言ったのは、僕の表情の中に、何かを求めているようなものがあったからだろう。

 彼女の口ぶりからすると、まばたき数回程度の時間だったのかもしれない。

「そうですねぇ」

 一応曖昧な返事をしてから、考えてみた。

 さっきの言葉は覚えている。『傘か、レインコートを持っているか』だ。

 七五調ではないせいか、実に中途半端な響き。何のインパクトもない言葉。

 だが、目の前の景色が切り替わったのは、その言葉を頭の中で、何回か繰り返したあとだった。

 あの言葉が、キーワードとなって、僕の記憶の扉が開いた。たぶんそれに間違いない。だが、わけが分からないことのほうが、多すぎる。

 レッスン室での撮影は、僕にとって絶対に忘れることができない出来事だった。それが、僕の記憶から抜け落ちていた理由。その記憶が、つまらない言葉によって、いとも簡単によみがえってきた理由。そのどちらも、僕には見当さえつかなかった。

 それだけではない。あの映像の異質さ。あれは一体なんだったんだ。

 脳裏に浮かぶ映像ではなかった。網膜に、はっきりと映っていた。まさに目の前に、それがあった。間違いなく、僕は十数年前のレッスン室でカメラを構えていた。

「いえ、けっこうです。はっきり聞こえましたから」

 まとまらない思考の途中で、自分の口から、そのような言葉が出たことに驚いた。しかし、すぐに思い直した。たぶん、僕の本能が言わせたのだろう。

 僕は二人を交互に見て、今度は自分の頭で考えたことを口にした。と言っても、深い意味なんて何もないせりふだった。

「こんなところで、立ち話もなんですから」


 白い手袋をした青いスーツが、腰を折った状態で後ろのドアを開けた。

「ではどうぞ、こちらへ」

 思わず脚がすくんだ。

 太陽の光を反射している車体には、指紋一つついていないようだった。本革のシートは、まだ誰も座ったことがないように見えた。

 もしかすると、僕が足を踏み入れたとたん、ブザーが鳴って、赤いランプの点滅が始まるかもしれない。

 アナタハ、コノクルマニ、フサワシイヒトデハ、アリマセン。

 そんな電子音が聞こえてきそうな予感を覚えながら、おそるおそる後部座席に腰を下ろしたが、もちろん、何ごともなかった。

 一旦中央の位置に座った僕は、すぐに横に腰を滑らせた。バックミラーに映っている青いスーツと、目を合わせたくなかったからだ。

 右側の窓に体をくっつけるようにして座った僕は、二人に気づかれないように、そっと靴を脱いだ。そして、それを足で動かし。靴の裏が天井を向く状態にした。

「粗相のないようにと言われております」助手席に座った赤いスーツが、僕に顔を向けた。

「ご要望がございましたら、何でもお申し付けください」

「ありがとうございます」と言ったものの「じゃあ、どちらかが僕の横に座ってよ」なんて冗談を言えるわけがない。

 その代わりというわけではなかったが、僕は、昨夜一睡もしていないことを伝えた。

「わかりました」赤いスーツは笑顔を浮かべた。「なにか、音楽をおかけいたしましょうか」

 僕は人に気を使われるのが苦手だ。

 何もいりません。ほっといてもらってけっこうです。その方がよく眠れますから。

 と言うつもりだったが、彼女は僕をじっと見つめたままだった。

「じゃあ、お任せいたします」

 ついそう言ってしまうところが、僕に、彼女ができない理由のひとつなのかもしれない。

 車が大通りに出たところで、雨だれを連想させるピアノの音が聞こえてきた。それはそれでよかったのだが、曲のバックに、掃除機の吸入音に似た潮騒の音がついていた。

 映像編集用に、苦労して録音してきた波の音を、雑音にしか聞こえないと注意を受けたことがある。それがトラウマになってしまった僕は、この手の音楽がラジオから聞こえてくると、すぐにスイッチを切るようにしていた。

 だが、お任せしますといった手前、別のCDにしてくれと言うことはできない。それに、とても面倒な気もした。

 しかし、幸いなことに、ボリュームは、ごく控えめだった。空港までは小一時間。我慢すれば、なんとかなる。それにタクシーの後部座席で、眠り込んだことが何度もあった。数分もしないうちに、眠れるだろう。

 僕は、両手を組んで、目を閉じた。

 だが、全然眠れなかった。音楽が気になったわけではない。

 僕だけのために、美女二人が前の座席に座っている。そう思った瞬間から、目が冴えて冴えて仕方がなかったのだ。


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