空から声が聞こえてきた日
目が覚めたのは、もう少しで正午という時間だった。
トリエステが祈ってくれたのか、それとも、とんこつラーメンとコーラの組み合わせが良かったのか分からないが、夢も見ずにぐっすり眠ることができた。
目覚めの爽快感は格別だった。睡眠の重要さは知っていた。でも、その日の効果には驚かされた。
なんと頭の中で複雑に絡み合っていた様々な思いが、すっきりとした形に整理されていたのだ。
一瞬心配した。
記憶の一部がリセットされたんじゃないだろうな。
しかし、それは思い過ごしだった。
ここ数日の記憶は、何一つ失われていなかった。それどころか、僕が書き上げたキーワードの順番に従って映像という形で並んでいた。
寝ている間に、誰かが頭の中の大掃除をしてくれたのだろうか。
いや、違う。夢をみなかったからだろう。
ひょっとすると、脳サーチのおかげかもしれないな。
そんなことを考えながら、ベッドから降りた。
その朝最初にしたのは、3時19分6秒で止まっている壁時計の電池交換。
古い電池を取りだして、携帯電話と同じ時刻に合わせようとしたところで、ふと思った。
今日から新しい人生が始まるのかもしれない。
でも何の根拠もなくそう思ったわけではない。
トリエステから聞いた自分の死亡時刻を、自分自身の手でリセットしようとしている。ということが一番強かった。しかし、その他にもいくつか理由があった。
幼い頃から一晩で何本も見ていた夢を、全く見なかった。
いつもは霞がかかったようになっている頭の中が、妙にすっきりしていた。
目に映るすべてのものが、光に包まれているように見えた。
めったにないことが一度に三つも揃うと、たいていの人は、こう思うはず。
これにはきっと何か意味がある。
そこで僕も考えてみた。
納得するのものはなかなか見つからなかった。でも僕は考え続けた。
きっと意味が隠れている。とても重要な意味が……。
自分にプレッシャーをかけて、頭の芯が痛くなりかけたところで、考え方を変えることにした。
もし、Pならどう思うだろう。
明快な答がすぐに返ってきた。
僕は自分の頭に浮かんできた言葉を、そのまま声に出した。
「さよなら、昨日までの俺。よろしく頼むよ、新しい俺」
無職になってから、時間に追われることも一分一秒を争うこともなくなった。これからも当分ないだろうが、自分の門出を祝うために、秒まで合わせることにした。
テレビをつけてみると、正午まであと一分というところだった。
僕は時計の針を12時ぴったりに合わせた。そして117番に電話をかけて、正午の時報とともに電池を入れた。
よし、これで時計も生き返った。
と言って、壁時計を元の位置に戻した僕は、顔も洗わずにパソコンデスクの前に座った。脳裏に浮かんでいる映像を言葉に変えてICレコーダーに吹き込むためだ。
その作業は、びっくりするほどスムーズに進んだ。
もちろん、そのまま文章にできるレベルではない。あくまでメモ的なものだ。頭の中は整理されていたが、記憶のはっきりしないものは、はっきりしないままの形で並んでいた。
吹き込み作業が終わったあと、風呂を沸かすことにした。人材派遣会社だけならシャワーでいい。でも今日は新しくなった自分を祝う特別な一日。そう思うことにした。
ジレットの三枚刃で少し伸びたヒゲをていねいに剃り、トニックシャンプーで髪を洗ってから、たっぷりと湯を張った湯舟に体を沈めた。いつもなら勿体ないと思う流れ出るお湯の音が、僕を祝福する拍手の音に聞こえた。
テレビの旅番組で温泉に浸かりながら、ア~ァとか、ファーッといった気の抜けたような声を出すと、リラックス効果が高まると言っていた。
それを試すとなると、必然的に後頭部は湯船の縁。顔は天井を見上げる格好になる。
フゥ~ッ、
目を閉じて息を大きく吐いたところで、すっかり忘れていたいくつかの疑問を思い出した。
初めてトリエステの名前を呼んだのは、この湯舟の中だった。
しかしあのとき僕は声に出して、トリエステと言ったわけではない。つぶやいただけ。耳の良い人間でも、二メートル離れていたら聞こえないほどの小さな声だった。
なのに、そのつぶやきはトリエステに届いた。届いたからこそ、トリエステのスリープモードが解除されたのだ。
だが、あのときトリエステがいた場所は、ここから十メートルほど離れた僕のベッドの中。しかもその間には、閉まったドアが二枚。
あのときトリエステは、こう言った。
「そんな恰好じゃ、風邪を引くわよ」
僕はあわてて体を隠した。
「やっぱり天井にいるんだね。見えているんだね」
「湯舟の音ぐらい聞き分けられるわよ」
とトリエステは笑ったような声で答えた。
会話機能付きパソコンに、音声認識ソフトが入っていても何の不思議はない。ない方がおかしい。だが、解せないのは、マイクがないのにノートパソコンが認識したことと、トリエステの声が天井から聞こえてきたことだ。
僕は、どうすればそのような状況が可能になるか、頭の中でイメージしてみた。
両手の指先がふやけるまで考えてみた結果、ふたつの答にたどり着いた。
天井のどこかに、マイクとスピーカーが設置してある。
あるいは、僕の妄想。
どっちだろう?
自分に問いかけた瞬間に答えが出た。
僕の妄想。
考えてみれば、答えは最初から決まっていた。とそのときの僕は思った。
幼い頃から、母はよくこう言っていた。
「あなたが、ときどき分からなくなるの」
眉間にすこしシワを寄せる母。迷惑をかけているんだなと思った僕は、
「心配ばかりかけてごめんなさい」
と言った。すると母は笑った。
「あら、謝らなくても良いのよ。うらやましいの」
羨ましいの意味が分からなかった僕は、
「うらやましいって、いけないことだよね」
と言って母を見た。
母は自分の額を、僕の額にくっつけた。
「どうすれば、お空の声を聞けるのかしら」
小学生になるまでの僕は、人は皆、世の中のあらゆるものと話をすることができると信じていた。
たぶんそれは、絵本やアニメの世界だけが僕の情報源だったからだろう。
だから僕は、昆虫や花や石に向かって語りかけた。しかしだれもが僕を無視した。
母に言ったことがある。
「たぶん僕は嫌われているんだよ」
「そんなことないと思うわ」母は僕の鼻の先を指で軽く突いた。「恥ずかしがっているだけよ。そのうちにうちとけてくるはずよ」
母の言った通りだった。最初に語りかけてきたのは太陽だった。
「よう、坊主」いきなりの上から目線。「おもしろい話をきかせてやろうか」
その次が月。
今でもそうだが、昔から月は女性に例えられる。それは僕の体験からしても正しいと思う。月はいつも控えめな声で言った。
「こんな話を知っているかしら?」
うるさかったのは満天の星。
「昔話だったら、俺たちにまかせなよ。なんたって、星の数ほど知っているんだ。太陽や月なんか、相手になりゃしない」
しかしその三者は僕が話を聞こうとすると、急に無口になった。
僕はそのことを母と祖母に話した。
「がっかりすることはないわ。太陽さんやお月さんが知っている話は、絵本の中にもあるはずよ」
と言ったのは母。祖母はこう言った。
「太陽も月も星もしゃべり疲れたんだよ。なにしろお婆ちゃんが小さい頃からお空に浮かんでいたからね。だったら、お前が話をしてやればいいんじゃないの。きっとみんな喜ぶよ」
僕は二人の意見を素直に受け入れた。
そして絵本やアニメで覚えた話を空に向かって話した。
太陽が出てくる話は、月と星に。月が出てくる話は、太陽と星にという具合に、子供ながらも気を使った。
ときどき感謝の声が聞こえてくることがあった。そのたびに母と祖母に報告した。
「あのね、今日、空から、ありがとうっていう声が聞こえたよ」
二人はいつも笑顔で「それはよかったね」と言った。
どこかで聞いたことのある声が突然空から降ってきたのは、小学三年生の夏。真夜中だった。
その頃の僕は、宇宙の仕組みに興味を持っていた。当然、太陽や月や星を科学的な視点で捉えるようになっていた。
「よう、坊主、久しぶりだな」
まさかと思った。仮にそれがあのときの太陽だったとしても、今太陽は地球の裏側にあるはずだったからだ。
「太陽さんですよね」
おそるおそる訊ねた。
「なるほど、そういうわけだったのか」とその声は言った。「どおりで会えなかったわけだ。言っとくけど、俺は太陽じゃない」
声を勘違いしたと思った僕は、あわてて言った。
「あ、そうか、星さんでしたね」
「違うね」
素っ気ないようで、温かみのある声だった。安心した僕はしばらく考えてから言った。
「でも、月さんじゃないですよね。声は男だから」
「おやおや」呆れたような声が返ってきた。「お前には色んな友達がいるんだな」
「違います」僕は即座に否定した。「その三人だけです」
本当にそうだった。その頃住んでいた母の実家は、少子高齢化の見本のようなへんぴな山間部にあった。
住民三百人少々。大人で一番若い人は五十七歳。小学生は僕をいれて八人。一番年下が僕。その上は親戚関係にある五年生と六年生。しかも僕は、二年の春に転校してきた、いわゆるよそ者。
それだけでも仲間はずれにされる要素がたっぷりあるというのに、僕はとても人見知りが激しい。
最初の頃、みんなは僕を遊びに誘いにきてくれたが、僕はいつも空を見上げて、ぶつぶつ独り言を繰り返すばかり。
それを見た近くのお婆さんが、あの子には悪い者が取り憑いていると言い出した。だれも近づかなくなったのは、それもあった。
「あのな、坊主」その正体不明の声は言った。「俺は忙しいんだ。ちょっと耳を貸せ」
僕は片方の耳(たしか右の耳だった)を声のした方に向けた。
「反対側の耳を塞ぐんだ」
命令口調だったが、威圧感はなかった。わけが分からないまま、僕は言われたとおりに手のひらで耳を塞いだ。
「これでいいの?」
「要するに、こっちから入った声が、抜けなきゃいいんだ」
「ちょっと待ってください」僕は左手の人差し指を耳の穴に突っ込んだ。いつもなら爪が伸びているのだが、ちょうどその日の昼、祖母に切ってもらったばかりだった。
「痛くはない。心配するな」
そう言われると逆に不安になった。僕は反射的に歯を食いしばった。