傘とレインコート
空を眺めなくても、良い天気だというのは分かっていた。
目覚めと共にテレビを点け、全国の天気予報をすべてチェックしたからだ。新聞の気象欄も何度も読み返した。
でも、今は六月。晴天続きだが、梅雨の季節。もしかすると、太陽が傘をかぶっているかもしれない。だとすれば、これから天気が崩れる可能性がある。
そんなことはどうでも良いことだったが、確認のために、顔を上に向けた。
しかし、というか、当然というか、空は青く晴れ渡り、雲の欠片さえなかった。日差しが眩しすぎて、思わず目を瞑るほどの、日本晴れ。
でも、どうして?
傘とレインコート、傘とレインコート、
頭の中で唱えながら、考えた。
Pは、さっきもこれと同じ事を言っていた。ということは、これには何か意味があるはず。
傘と、レインコート、傘と、レインコート、傘と、レインコート……
何回か繰り返しているうちに、記憶の扉が開いたのか、すっかり忘れていた昔の記憶がよみがえってきた。
それは、映像専門学校に入学して数ヶ月したころだった、
その日、僕たち映像学科の生徒が訪れたのは、中堅クラスの芸能プロダクションのレッスン室。
「すげーな、この眺め」
僕以外の人間の前では、この手の感情を露わにしないPが、ため息交じりにそう言った。
テニスコートほどのスペースを埋め尽くしていたのは、いわゆるピチピチギャル。申し訳程度の生地でできた水着。その下の、はちきれんばかりのナイスボディ。
たぶん、その年の新人。ほとんどが、僕たちと同じくらいの年齢。なのに違う世界から舞い降りてきた人々のように感じた。
インストラクターのかけ声は、無機質とも思える体操のかけ声。
イチ、ニ、イチ、ニ、イチ、ニ。
しかし、僕の目には、彼女らの姿は、長い手足を悩ましげに動かす妖精に映った。
たぶんそのときの僕は、口を半開きにしたまま、ぽけーっと、突っ立っていただけだと思う。
「お前は、どの子?」
Pが、視線を前に向けた恰好で、僕の脇腹を突いた。
彼とは入学式からの仲良し。僕たちはその日から、色々な事柄について語りあった。面白かったのは、僕とPの好みがほとんど正反対だったことだ。
僕は甘党、動物好き。特に、昆虫類には目がない。天気は晴れた日。夜より昼が好き。
「そうだな」
おとなしそうな女の子を探そうと、あわてて、焦点を合わせてみた。
しかし、全員が同じ動き。同じ色の水着。同じような体つき。インストラクターの指示に従って踊っている女の子たちの姿が、なぜか、ウエストがキュッとくびれた手足の長い新種のペンギンの大群に見えてしまい、一人一人の顔を、見分けることができなかった。
しばらくしてから、Pが言った
「あと、三分。それまでに決めとけ」
映像学科の生徒が、そのプロダクションを訪れたのは授業の一環。卒業後に就くかもしれない就職先の視察。名目はそうなっていた。
だが、Pに言わせると、こうなる。
皆さんが卒業した暁には、一般市民が立ち入れないような場所にも、自由に出入りできるようになります。授業の中身が薄い割に、学費が高すぎる、なんてことは言わないで、二年間頑張りましょうね。
ま、それはともかく、その日僕たち生徒全員は、先週発売になったばかりのハンディカムを持っていた。メーカーの社長と親しい理事長が、担当者と掛け合って、無償提供してもらった小型のハイビジョンカメラだ。
一通りの捜査方法を説明したあと、率先者のミスダツが言った。
「ひょっとすると、新人タレントの中に、大スターの卵がいるかもしれないぞ。彼女たちにとっては、君たちが初めてのカメラマンになる」
男子生徒の殆どが、大喜び。
ひょっとすると、何年か後に、お宝映像となって、とんでもない高値がつくかもしれない。
しかし、世の中はそんなに甘くない。撮影には、いくつかの条件がついていた。
撮影場所は、レッスン室のみ。何をどう撮っても良い。アングルも、撮影時間も自由。再生場所は二階の会議室。ただし、何十分撮っても、再生時間は一人、三分以内。
一番残念だったのは、撮影済みのテープは、プロダクション側にそのまま提出。著作権はプロダクションのもの。という規約。
残り三分の声で、我に返った。
楽しいときの時間は早い、と言う。確かにそうだ。いつの間にか、時間が進んでいた。
どうしよう。
僕は焦った。理由は簡単。まだ一度も、撮影ボタンを押していなかった。
原因は二つあった。
目の前の風景に魂を奪われていたこと。ここに着く前に、Pが言った言葉。
「自分の頭の中でイメージが固まるまで、絶対にレックボタンを押さないことにしようぜ」
僕はその約束を、忠実に守っていたのだ。
「おい」今度は僕がPの脇腹を突いた。「撮影はどうするんだ。もう時間はないぞ」
「大丈夫」Pは僕に顔を向けた。それから軽快な声で言った。「だから、さっきからお前好みの女の子を探せって、言っているじゃないか」
その言葉の意味は分からなかったが、余裕の笑みを浮かべているところをみると、面白いアイデアを思いついているようだった。
「お前は、それでいいかもしれないけど、俺はどうなる」
僕の言葉を待っていたかのように、Pはニヤリと笑った。
「ここは、俺とお前の共同制作でいこう」
共同制作?
そんな話は、聞いていなかった。
「なに、それ」
としか言えない僕に、Pはつづけた。
「傘と、レインコートを持ってきたか」
もちろんその時の僕に、Pの頭の中に、どのような映像が浮かんでいるのか、分かるはずもない。