赤と青
アパート前の植え込みの隙間から、人影が見えた。
目を細めて観察すると、人待ち顔で立っているのは、抜群のスタイルの持ち主。コカコーラの自販機よりも鮮やかな赤いスーツ。遠くから眺めているだけでも、はつらつとしたものを感じる女性だった。
もっと良く見てみよう。
と、右足に体重をかけたところで、こちらを向く気配がした。
別に何も悪いことはしていないのに、気がつくと、カイズカイブキとアジサイの茂みの下に、身を隠していた。
もしかすると、誰かに見られたのかもしれない。
そっと辺りを見回すが、どこからも視線らしきものを感じない。
ほっと胸を撫で下ろし、そのままの恰好で靴紐を結び直す真似をしようとしたが、紐つきではないことに気づいて、再びあわてる僕。
目を疑うような、とびっきりの美人、いや、美女、というべきかもしれない。
東京の街を歩いたら、間違いなく、芸能関係者が名刺片手に飛んでくる、はず。
待てよ。
そのとき、頭に浮かんだ言葉があった。
ぬか喜び。
とたんに身体の力が抜け、片方の膝が地面につく感触。
何を勘違いしているんだ、この俺は。
ゆっくり立ち上がった僕は、ズボンについた砂を手で払った。
彼女が待っているのは、僕じゃない。あんなきらびやかな女性は、僕の人生には無関係。姿を見ることができるだけでも、幸せだと思わなければならない。
第一、今朝の電話から三十分くらいしか経っていない。その間に、Pにできることといえば、女性タクシードライバーを手配するぐらいのものだろう。
それに、鹿児島空港まで高速だと小一時間。それぐらいの距離と時間に、案内役なんて必要ない。
自分の早とちりを、打ち消した僕は、アパートの敷地から足を踏み出した。
「あの」
自販機の横に差しかかったところで、声がした。言葉を発したのは、もちろん赤いスーツ。
文字にすれば「あ」と「の」のたった二文字。なのに、彼女がこちらの人間ではないのが分かった。
たぶん、誰かの家を訊くつもりなんだろう。とすると、相手は誰? 男? 女?
男だとしたら、どんな奴なんだろう。こんな女の子を、こんなところで待たせる男の顔を拝んでみたい。いや、できることなら、ほっぺたを引っぱたいてやりたい。
「はい、何でしょう」
立ち止まった僕は、わざとぶっきらぼうな声で言った。
すると彼女は、口元に笑みを浮かべて僕を見た。
「つかぬことをお伺い致しますが」
この手の言葉が、こんな若い女の子の口から出てくるとは思わなかった。もしかすると、良家のお嬢様なのかもしれない。そんなことを頭の隅で考えながら、彼女の口元を眺めた僕は、その後に続いた言葉に、我が耳を疑った。
彼女の口から出てきたのは、僕のフルネームだった。
「で、いらっしゃいますね」
予想だにしない事態。状況がのみ込めない僕は、慌てふためいた。
「あ、あ、はい、そうです」
の返事と共に、自分の鼓動が早くなるのが分かった。
「そうです、はい」
もう一度、そう言って、気をつけの姿勢をとる僕に、彼女は笑顔を浮かべたまま、名刺を差し出した。
「私、こういうものです」
角の丸い白い名刺。でもなぜか、そこにあったのは、観光旅行社らしき名前だけ。
担当者名と、会社の住所がない理由を考えてみた。
結論はすぐ出た。
この子を手配したのは、Pに間違いないだろう。
この女の子に個人的な興味は持つな。お前の手に負えるような相手ではない。お前を空港まで送るだけ。その道中の会話を十分に楽しめ。
空白の多い名刺が、そう語っていた。
「どうぞ、こちらへ」
彼女の後について路地を曲がったところで、もう一度驚いた。狭い路地を塞ぐような恰好で停まっていたのは、つい今し方ディーラーから届いたような、ぴかぴかの33ナンバー。最高級クラスの国産乗用車。
驚きは、それだけではなかった。
ゆっくりとドアが開いて、運転席から降りてきたのは、青いスーツの女の子。これまた、とんでもない美女。
掃き溜めに舞い降りた、二羽の鶴。
そんな言葉が、脳裏に浮かぶ。
車の横に整列した二人は、直立不動の姿勢をとると、声をそろえて言った。
「私どもが、空港まで案内致します」
デビューしたばかりの新人歌手のようなぎこちなさがあった。でもそれが、逆に新鮮な感じに聞こえた。
「ご依頼主様からの、伝言を、お預かりしております」
と言って、青いスーツが胸のポケットから取りだしたのは、スマホ。
彼女は、確認するようにしばらく画面を見つめた後で、こう言った。
「傘か、レインコートを持っているか」