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九分の一

「おやま、どうしたんだ。急に素直なお坊ちゃんになって」

 ミスダツは、ほんとうにびっくりしたというような声で言った。そして、珍しいものでも見るような目で、しばらくPを眺めたあと、にやりと笑った。

「でも、こうやって見てみると、お前の素直な顔も、なかなかのもんだな」

 ミスダツにしてみれば、さっきのお返しの意味もあったのかもしれない。だが、ミスダツが言ったとおり、Pの表情からは、いつものふてぶてしさが消えていた。こんな幼い顔のPは初めてだった。

 ひょっとすると芝居? だとしたら、何のために?

 僕はそれを確かめようと、腰を下ろしながらPに視線を送った。だが、彼は何か考えるような目で、壁の一点を見つめているだけだった。

「いつまで突っ立っているつもりなんだ」

 ミスダツの声でPも自分の席に座ったが、彼の表情に変化はなかった。

 ゆっくりとした動作で、僕の正面に座るP。なぜか別人のように見えた。

 気がつくと、ついさっきまでのざっくばらんな空気が、通夜の席のような感じになっていた。

 突然訪れた奇妙な沈黙。それを払いのけようと思った僕は、目の前のコーヒーカップに手を伸ばした。すると、それを真似するように、Pもカップを手にとった。

 ピアニストのような細くて長い指。Pが持つと、飾りっ気なしの白いカップが高価なブランド品に見えてくるから不思議だ。

Pは食べものに、けっこううるさい。味はもちろん、鮮度にもこだわる。

 特にコーヒーに対しては、その傾向が強い。

 十数杯のコーヒーを一度で淹れるネルドリップ方式のものは、淹れたてでないと飲まない。冷めたコーヒーも飲まない。Pにとって、時間が経って酸味の出たものは、コーヒーではないらしい。

 しかし、そのときのPは、何も言わずに生ぬるくなったコーヒーを飲み干した。

「前から、お前たちに言おうと思っていたことがあるんだ」Pがコーヒーカップを置くのを待っていたように、ミスダツが口を開いた。「よかったら、聞いてくれないか」

 ミスダツは講義中によく脱線話をした。でも、生徒に関する話をしたことはなかった。

 二年間講義を受け持ったミスダツの目に僕たちの、特に口の悪いPの姿は、どのように映っていたのだろう。

「ええ、いいですよ」

 僕が即答すると、ミスダツはPに顔を向けた。

「お前は、どうだ」

 ぽかんとした顔で、ミスダツの視線を受け止めていたPの反応が返ってきたのは、それから三秒ほどしてからだった。

「何だよ、急に」Pは、我に返ったような表情でミスダツを睨んだ。「どうだ、って、何が?」

 いつもの言い方。いつもの人を小馬鹿にしたような表情。いつものPが戻ってきて、ほっとした反面、つい先ほどまでの表情が、どこに行ったのか気になった。

「どうかしたのか?」僕はPの目を見て訊ねた。

 いきなり言われたからなのか、Pは戸惑ったような表情を浮かべて「俺?」と言った。

「何か気が抜けたみたいな感じだったぞ」

 感じたままを言うと、少し間があって、言葉が返ってきた。

「なんだ、そんなことか」Pはそこで一息ついてから、少しだけ笑った。「だったら、いつもと変わらないってことじゃないか」

「なるほどな、確かにお前の言うとおり」

 と言いながら思った。

 たぶんPは数分間の間に、自分がどのような状態になったのか分かったのだろう。もし、それが自分にとって何でもないことなら、Pは自分からそれを話すはず。

 三秒ほど待ったが、Pは何も言わなかった。

 となると、ここで話を切りかえる必要がある。

 僕は、ミスダツに顔を向けた。

「その前に、昭和残侠伝を見せてください」

 僕がどういう気持ちでそう言ったか、ミスダツは瞬時に理解したようだった。

「了解」軽快な声で答えた彼は、テーブルの手提げ金庫を持ち上げた。「九本の中で、どれが見たい?」

「九本?」

 僕たちは同じタイミングで、そう言った。


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