仕分け作業
質問には答えないくせに、上から目線の言い方。さすがにムカッときた。
「言われなくても分かっているよ。君が現れなかったらそうするつもりだったんだ」
気づいたときには、言っていた。しかもそうとうきつい口調で。
しまったと思った。
これで自動録音機能の件も、トリエステの声が僕の頭の中から聞こえる理由も訊けなくなった。しかし一旦口から出たものは仕方がない。
「もう、何もきかない。全部自分で答えを探す」
反応はないと思った。だがトリエステはふふふと笑った。そして「やっと位置が正常になったみたいね」と言った。
意味が分からなかった。
「位置? 何の?」
思わず訊いた。
「今自分で言ったでしょ。声よ、声。私の声の位置」
その声がしだいに遠のいていくのがはっきりと分かった。私の声、という部分は空中からだった。
トリエステがまた消える。いなくなる。
予感めいたものを感じた僕は、焦った。
「君の声が、どうしたっていうの?」
しかしトリエステは、それには答えなかった。
「これで安心したわ」
その声は、斜め上、四十五度あたりから聞こえてきた。
「まさか、白い世界に戻るつもりじゃないだろうね」
思っていたことを口にすると、天井の向こうから妙に明るい声が降ってきた。
「じゃあ、またね。バイバーイ」
「またね、っていつ?」
しばらく待ったが、返事はなかった。来ない返事をいつまでも待つのは、僕の趣味ではない。
今のは何だったんだよ、おい。
独り言を言った僕は、自分の手元に視線を戻した。そして四角い箱を睨んで、思いっきりふて腐れた声で言った。
「はいはい、さようならトリエステ。気が向いたらまた出ておいで」
僕はそのままパソコンデスク向かった。そしてノートパソコンを机の上に置いて宣告した。
「今日からここが君の新しい居場所。文句はないよね、トリエステ」
トリエステも指摘したように、今僕がしなくてはならないのは、現実と夢の仕分け作業。
明日人材派遣会社に行くのも、これから外出するのも、その一環。
部屋の中の検証は後まわし。できるだけはやく外部データーを集める必要がある。そうしなければ頭の整理がつかない。
久しぶりに取りだしたウエストポーチに、ICレコーダーとボールペンとメモ帳を突っ込んだ。
最初に向かったのは、老夫婦が経営するラーメン店。でも食事をするつもりは毛頭ない。現実の記憶の中に紛れ込んできた夢の記憶を払拭するためだ。
あの店での出来事は、全部夢だった公算が強い。あんな不味いラーメン店が繁盛するはずがない。
予想どおりだった。店構えは6年前と変わらなかった。「ネットで大評判の」というポップ文字もなかったし、行列もなかった。アーケード通りそのものに人影がなかった。
自分の予想が当たったことは嬉しかった。でも、がっかりした部分もあった。
もし現実のことだったら「ネットで大評判の」という文字の後に「シュールストレミング風ラーメン」と書き足せば、もっと人気がでるかもしれないと思ったからだ。
世の中には物好きがいる。美味しいものを食べ尽くした人間の中には、今度は不味いものを、と思う人間がいるかもしれない。
この店の客が増えると、商店街も潤う。そうなれば、お婆さんの金の指輪も夢ではない。
『シュールストレミング風ラーメンは夢だった』
とカギ括弧付きでメモ帳に書き込んだ僕は、せっかくだから店の中も確認することにした。といっても店内を歩き回るわけではない。入り口から顔をちょっと出すだけ。
確認するのは二カ所。レジ横の水槽のネオンテトラと、その上の壁。三秒あれば足りる。
店のドアをそっと開けて顔をいれたとたん、耳元で元気な声が聞こえた。
「いらっしゃいませです。どうぞ、どうぞ、こちらにどうぞ、です」
ビックリして横を向くと、あのお婆さん。テーブルを指差すその手には金色の指輪が二つ。店主のお爺さんは、にこにこ笑ってこっちを見ていた。
背中に冷たいものが走った。異次元の世界の入り口にいるような気がした。
ここも現実と夢が入り交じった世界なのだろうか。
店内に客がいないのを確認した僕は、とっさにウソをついた。
「友人がいないところをみると、店を間違えたみたいです。ごめんなさい」
後ずさりしながら水槽に目をやった。泳いでいたのは、ネオンテトラではなかった。金魚。それも三匹。壁には真新しい表彰状。まさしく夢でみたとおりだった。
またしても頭の中は大混乱。
店内は夢の通りなのに、どうして店構えが変わっていないんだ。なんでお婆さんもお爺さんもあんなに愛想がよかったんだ。中途半端の意味がまるで分からなかった。
どこをどう歩いてきたのか、よく覚えていなかった。気がついたら、TSUTAYAの前の交差点だった。
視線の先にあったのは行列ができることで有名なラーメン店。時刻はまだ八時前。いつもなら30分は待たされる時間。なのに誰も並んでいなかった。
外出の理由を思い出した僕は、信号が青になった横断歩道に足を踏み出した。
結論から言うと、そこのラーメン店での出来事はすべて現実に起こったことだった。
あの日僕たちを案内した店員が、その日のことをよく覚えていたのだ。
連れの若いカップル。僕たちが注文した三種類のラーメン。店員が用意した取り皿を使わなかったこと。ときどき天井を見上げながら、僕一人がしゃべっていたこと。三人分の代金を払ったのは僕。その他にも思わぬ収穫があった。
おつりを渡すとき僕の頭に視線を向けた店員が「でも頭に怪我がなくて、よかったですね」と言ったのだ。「なぜかあそこで転んでしまう方が多いんです。段差もないというのに……」
アパートに帰った僕は、さっそく部屋の中の仕分け作業に取りかかった。
しかし、あの日僕が借りたレンタルDVD「昭和残侠伝」のことが記憶の中から抜け落ちているなんて夢にも思わなかった。