表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
35/106

お帰り、あの日の記憶

 忘れていた記憶が、突然よみがえった。

 場所は十数年前の東京。冷たい北風が吹く板橋。

「これが最後」

 ダウンコートのポケットに、両手を突っ込んだままPが言ったのは、洒落た三階建てのマンション。一階の左端。ドアの前。

「ここじゃなかったら、このまま帰ろう。サウナでも行こうか」

 Pは笑顔で言った。

 知らない家のインターホンを押す行為に少し慣れてきた頃だったが、表札が出ていないのが、少し気になった。

「怖いおにいさんが出てきたら、どうするんだ」

「大丈夫」Pは余裕の笑みを浮かべて、ノブの上の小さなシールに目をやった。「今どき、この手のシールを、こんなところに張る人間は、あいつ以外にいない」

『せまい日本、そんなに急いでどこへ行く』

 どこかで聞いたことがあると思ったら、ミスダツから聞いた古い交通標語だった。

「よお、待ってたぞ」チャイムの音と共に、ドアが開いた。「きたないアパートだけど、まあ上がれ」

 体の芯まで凍りそうな寒さの中、探し当てるのに一時間ちかくかかったのは、今と同じように、きたないアパートだからすぐ分かる、と言われたのを、そのまま信じたからだ。

 南国育ちの僕は、寒さに弱い。Pと同じ枚数を着ていても、体が小刻みに震えていた。

 謙遜なんか、いらないと思いますけどね。

 と、文句の一つも言いたいところだったが、Pは、そのことには触れなかった。

「宝くじ?」

 靴を脱ぎながら、冗談ぽく言った。

 ミスダツは、にやりと笑って答えた。

「バブルの恩恵」

 僕たちが案内されたのは入り口横の洋間。八畳ほどの部屋の真ん中に分厚い絨毯。家具調コタツと座椅子が四つ。コタツの右端に、それぞれ小さな引き出しが付いているところをみると、麻雀用に改造したか、特注品のどちらかだろう。

「何だよ、これ」

 コートを脱ごうとした自分の口が、半開きになるのが分かった。

 四方の壁は、床から天井まで作り付けの棚。きれいに並んだビデオとDVDのケースが、ぎっしり詰まっていた。

 窓のない部屋。間接照明。まるで、あやしげなレンタルビデオショップに迷い込んだような気分。

「店を閉める奴から貰ったんだ。捨てれば産業廃棄物。こうしておけば、歴史的資料」

 訊かれもしないのに、ミスダツが言うと、Pは茶々を入れるような口調で応じた。

「あんたはえらい。世の中には、そんな人もいなくちゃね」

 そしてそのあと、探るような目で訊いた。

「きちんと整理したのは、彼女?」

 ミスダツには、結婚経験がないという噂があった。

 でも、僕とPの間で、そんな話がでたことは一度もない。というか、学校以外でミスダツの話をしたことは、ほとんどなかった。

 たぶんPは、その手の質問をすれば、ミスダツが喜ぶと思ったのだろう。

「なんで、そんなことを訊くんだ」ミスダツは、笑いながら答えた。「自分でやらなきゃ誰がやるんだ。俺には、お前みたいに彼女なんてものはいないからな」

 ミスダツとしては、女出入りの激しいPに皮肉を言ったつもりだろうが、Pはさらりとかわした。

「へぇー、面白い。話はいつも支離滅裂なのに。人は見かけによらないもんだ」

 

 ミスダツが僕たちを招待したのは、二人の就職先が、まだ見つかっていなかったからだ。

「僕は大丈夫です。いなかに帰って、向こうで見つけます」

「お前のいなかって、どこだっけ?」

「鹿児島です。いずれ母をみなくてはいけませんから。最初から決めていました」

 僕の場合は、それで終わった。

 だが、映像学科の歴史の中で、三本の指に入るセンスの持ち主と言われたPの場合は、ちょっと違った。

「お前は、どうするんだ」ミスダツは自分でビールを注ぎながら、からかい口調で続けた。「ワタクシめも、あなた様のように悩んでみたいものでございます。選り取り見取りというのも、それはそれで、大変なんでしょうね」

 笑いながらしばらくミスダツを見ていたPが、僕に顔を向けた。

「今日まで黙っていて悪かったと思う」Pは、空になった僕のグラスにコーラを注ぎながら続けた。「俺は、別の道に進むことにしたよ」

「こんなとき、つまんねぇ冗談を言うもんじゃない」ビールを飲もうとしていたミスダツが、グラス片手に咳き込んだ。「ほら、見ろ。あぶなくビールを吹き出すところだったじゃないか」

「俺、マジです」

 Pは素っ気ない声で答えた。

 僕とミスダツは、同時に言った。

「マジ?」

「そうです。マジっす」

 と真顔で答えるP。

「ほんと、なのか?」

 半信半疑という表情のミスダツ。どうやら彼は、まだ冗談だと思っているようだった。

 しかし、僕にはPの本気度が分かった。こんな言い方をしたあと、考えを変えた試しがない。

 気配を察したのか、ミスダツはグラスを置いた。

「何で、また……」

「俺には、カメラマンとして、致命的な欠陥があるんです」

 Pは、わざとらしく頭を掻きながら答えた。

 結局、その日、Pは自分の欠陥に関する話はしなかった。授業を通じてPの気質を知っているミスダツも、それ以上の追求はしなかった。

 当時僕たちは、二十歳になったばかり。親子ほど年が離れているミスダツと共通の話題は限られていた。話は自然と、部屋を埋め尽くしている映画のビデオに移っていった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ