お帰り、あの日の記憶
忘れていた記憶が、突然よみがえった。
場所は十数年前の東京。冷たい北風が吹く板橋。
「これが最後」
ダウンコートのポケットに、両手を突っ込んだままPが言ったのは、洒落た三階建てのマンション。一階の左端。ドアの前。
「ここじゃなかったら、このまま帰ろう。サウナでも行こうか」
Pは笑顔で言った。
知らない家のインターホンを押す行為に少し慣れてきた頃だったが、表札が出ていないのが、少し気になった。
「怖いおにいさんが出てきたら、どうするんだ」
「大丈夫」Pは余裕の笑みを浮かべて、ノブの上の小さなシールに目をやった。「今どき、この手のシールを、こんなところに張る人間は、あいつ以外にいない」
『せまい日本、そんなに急いでどこへ行く』
どこかで聞いたことがあると思ったら、ミスダツから聞いた古い交通標語だった。
「よお、待ってたぞ」チャイムの音と共に、ドアが開いた。「きたないアパートだけど、まあ上がれ」
体の芯まで凍りそうな寒さの中、探し当てるのに一時間ちかくかかったのは、今と同じように、きたないアパートだからすぐ分かる、と言われたのを、そのまま信じたからだ。
南国育ちの僕は、寒さに弱い。Pと同じ枚数を着ていても、体が小刻みに震えていた。
謙遜なんか、いらないと思いますけどね。
と、文句の一つも言いたいところだったが、Pは、そのことには触れなかった。
「宝くじ?」
靴を脱ぎながら、冗談ぽく言った。
ミスダツは、にやりと笑って答えた。
「バブルの恩恵」
僕たちが案内されたのは入り口横の洋間。八畳ほどの部屋の真ん中に分厚い絨毯。家具調コタツと座椅子が四つ。コタツの右端に、それぞれ小さな引き出しが付いているところをみると、麻雀用に改造したか、特注品のどちらかだろう。
「何だよ、これ」
コートを脱ごうとした自分の口が、半開きになるのが分かった。
四方の壁は、床から天井まで作り付けの棚。きれいに並んだビデオとDVDのケースが、ぎっしり詰まっていた。
窓のない部屋。間接照明。まるで、あやしげなレンタルビデオショップに迷い込んだような気分。
「店を閉める奴から貰ったんだ。捨てれば産業廃棄物。こうしておけば、歴史的資料」
訊かれもしないのに、ミスダツが言うと、Pは茶々を入れるような口調で応じた。
「あんたはえらい。世の中には、そんな人もいなくちゃね」
そしてそのあと、探るような目で訊いた。
「きちんと整理したのは、彼女?」
ミスダツには、結婚経験がないという噂があった。
でも、僕とPの間で、そんな話がでたことは一度もない。というか、学校以外でミスダツの話をしたことは、ほとんどなかった。
たぶんPは、その手の質問をすれば、ミスダツが喜ぶと思ったのだろう。
「なんで、そんなことを訊くんだ」ミスダツは、笑いながら答えた。「自分でやらなきゃ誰がやるんだ。俺には、お前みたいに彼女なんてものはいないからな」
ミスダツとしては、女出入りの激しいPに皮肉を言ったつもりだろうが、Pはさらりとかわした。
「へぇー、面白い。話はいつも支離滅裂なのに。人は見かけによらないもんだ」
ミスダツが僕たちを招待したのは、二人の就職先が、まだ見つかっていなかったからだ。
「僕は大丈夫です。いなかに帰って、向こうで見つけます」
「お前のいなかって、どこだっけ?」
「鹿児島です。いずれ母をみなくてはいけませんから。最初から決めていました」
僕の場合は、それで終わった。
だが、映像学科の歴史の中で、三本の指に入るセンスの持ち主と言われたPの場合は、ちょっと違った。
「お前は、どうするんだ」ミスダツは自分でビールを注ぎながら、からかい口調で続けた。「ワタクシめも、あなた様のように悩んでみたいものでございます。選り取り見取りというのも、それはそれで、大変なんでしょうね」
笑いながらしばらくミスダツを見ていたPが、僕に顔を向けた。
「今日まで黙っていて悪かったと思う」Pは、空になった僕のグラスにコーラを注ぎながら続けた。「俺は、別の道に進むことにしたよ」
「こんなとき、つまんねぇ冗談を言うもんじゃない」ビールを飲もうとしていたミスダツが、グラス片手に咳き込んだ。「ほら、見ろ。あぶなくビールを吹き出すところだったじゃないか」
「俺、マジです」
Pは素っ気ない声で答えた。
僕とミスダツは、同時に言った。
「マジ?」
「そうです。マジっす」
と真顔で答えるP。
「ほんと、なのか?」
半信半疑という表情のミスダツ。どうやら彼は、まだ冗談だと思っているようだった。
しかし、僕にはPの本気度が分かった。こんな言い方をしたあと、考えを変えた試しがない。
気配を察したのか、ミスダツはグラスを置いた。
「何で、また……」
「俺には、カメラマンとして、致命的な欠陥があるんです」
Pは、わざとらしく頭を掻きながら答えた。
結局、その日、Pは自分の欠陥に関する話はしなかった。授業を通じてPの気質を知っているミスダツも、それ以上の追求はしなかった。
当時僕たちは、二十歳になったばかり。親子ほど年が離れているミスダツと共通の話題は限られていた。話は自然と、部屋を埋め尽くしている映画のビデオに移っていった。




