地べた里庵
そういえば、入り口に新しい店の看板はなかったような気がする。
ひょっとすると、試食は口実。店の名前を考えてもらおうと思って僕を誘ったのかもしれない。
だとすると、すっかり忘れていましたと言うわけにはいかない。Pへの贈り物をゲットできたのは、おばちゃんのおかげなのだから。
僕は大急ぎで、適当な名前がないか考えた。
無農薬野菜の店。山口さんちの百恵ちゃん。
味どころ百恵。
山口百恵というおばちゃんの本名のインパクトがあまりにも強かったせいか、そのふたつ以外に何も考えつかなかった。
しかし、今日は開店三日前。店名を決めずに見切り発車なんてことはないだろう。それに、案外、僕に相談したことは忘れているかもしれない。
「店の名前は、決まっているんですよね」
思い切って訊ねると、おばちゃんは「そう言えば、あんたにも相談したことがあったわね」と笑った。
僕の取り越し苦労だった。店の名前は決まっていた。看板も出来上がっていた。
「まだ誰にも、見せていないんだけど」
おばちゃんは、にっこり笑って、入り口横の壁に目をやった。
「開けてごらん。本邦初公開」
そこには、ブルーシートに包まれたものが立てかけてあった。
「僕でいいんですか?」
と訊くと、おばちゃんは「もちろん」と答えた。「一回で、森伊蔵を当てた人だからね。それにあやかれるかもしれないし」
中から出てきたのは、高さ90センチ。巾30センチ程度の分厚いヒノキの一枚板。
『地べた里庵』
黒々とした墨で書かれていたが、どこからどう見ても素人っぽかった。はっきり言えば、下手。でもなぜか味のある文字だった。
僕はしばらく、その文字を眺めながら考えた。
ベジタリアンと、地べたを掛け合わせたのだろう。
だとすれば、考えたのはおばちゃん。以前スーパーの野菜売場で、野菜作りは土作り。という話を長々と聞かされたことがある。
「とても良い名前ですね。どなたが考えられたんですか?」
水を向けたつもりだった。とうぜん「私」という言葉が返って来ると思ったが、違った。
おばちゃんは、すこし恥ずかしそうに笑って答えた。
「うちの人なの」
反射的に、似たもの夫婦という言葉が浮かんだ。
「旦那さんも、農業をなさっていらっしゃるんですね」
「それがね」おばちゃんは首を振った。「まるっきり、逆の仕事なの」
農業と正反対の仕事って何だろう。
「パソコン関係ですか? それとも水産関係?」
僕が思いつくのは、そんなところだ。
するとおばちゃんはなぜか、クスッと笑って答えた。
「自転車関係なんでおます」




