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トリエステ

 しかし、よくよく見ると、とても研究開発費数千万円のパソコンには見えなかった。

 シンプルというより、無骨なただの黒い箱。年代物の硯石すずりいしに見えなくもない。

 トリエステとの会話は、すべて夢の中のできごとだったのかもしれない。

 またしても、そんな思いが頭をかすめた。

 でもそれを、すぐに打ち消した。ミスダツがよく言っていた言葉を思い出したからだ。

 考えるより、先に進め。進めば、何かが見えてくる。

 僕はボイスレコーダーをノートパソコンの横に置いた。そしてそっと枕を持ち上げた。

 枕に隠れていた他の部分が現れた。

 少し乱れたシーツ。ノートパソコンのシルエット。

 つい先ほどまでは単なる四角い箱。

 なのに、胸がドキンと鳴った。思ってもいなかった自分の反応に戸惑った。

 これはトリエステを女性扱いしていたころの記憶の名残。ここで目を外せば、いびつな精神の持ち主になるかもしれない。

 僕は、ノートパソコンを見据えたまま、意識して元気な声で呼びかけた。

「そろそろ起きたほうがいいんじゃないかな。トリエステ」

 しばらく待ったが、返事はなかった。しかしそれは織り込み済み。

「僕の記憶によると、君は白い光とともにどこかに消えた」それから天井に目をやった。「でも君は、必ず戻ってくる。ひょっとすると、今も近くにいるんじゃないのかな。だって、君は言ってたよね。僕たちはずっと繋がっているって」

 もちろん思いついたことを声に出しただけ。そう言わなければ、自分の気持ちが収まらないような気がしたからだ。すると、トリエステとの会話が耳の奥によみがえってきた。

「君は僕を十年待っていたと言ってたよね。だったら、僕もそうする。十年でも二十年でも待つ。君が戻ってくるまで、ずっと待っている」

 そこで僕はノートパソコンを両手で抱えた。そして目の高さまで持ち上げた。

「君も知っていると思うけど、今僕の頭の中は混乱しているんだ。非常に混乱している。ほんとのことを言うと、まだ自分がいる場所がどこかはっきり分からないんだ」

 それからパソコンの向きを変えた。

「ほら、見てごらん。あの時計。僕の死亡時刻とまったく同じだよね。それだけじゃないよ。冷蔵庫の横には蜂蜜の瓶が置いてあるだろ。でも瓶の上に割り箸はない。それに僕が作った君専用のベッドもない。だけど、天井目がけて放り投げたタオルケットは床に落ちている。ねっ、不思議だろう。現実の世界と、夢の中の出来事が混在しているように見えるだろ」

同意を得るように言ったが、完全に僕の独り言でしかなかった。しかし、そうすることで心が落ち着いてきた。

「話は変わるけど」と僕は言った。「君の具合が悪くなったのは、会話の中で君の名前を呼ばなかったからだったよね。あれは本当に悪かった。でも悪気はなかったということは分かってくれるよね」そこで言葉を切って、さらに続けた。「これから君の名前を呼ぶことにする。だから、はやく声を聞かせてくれないかなトリエステ」

 携帯電話の待ち受け画面で時刻を確認すると、午後七時を少し回っていた。

「君の性格はまだよく分からない」と僕は言った。「でも、そんなに気が長い方じゃないよね。このままの状態で3分待つことにするよ。もしよかったら、それまでに声を聞かせてほしいんだ。一言でいいからさ」


 結局15分待ったが、返事はなかった。

「じゃあ、これから晩飯を食べに行くことにする。確認したいこともあるから少し遅くなるかもしれない。それでもいいよねトリエステ」

 それからノートパソコンに顔を近づけて、少し声を落として言った。

「これからも、君を一人の女性として扱うことにするからね」

 今度も返事はなかった。

 やっぱりトリエステとの会話は夢だった。

 と思ったとき、左手の薬指の根元にかすかな電流のようなものを感じた。

 気のせいだと思った。でもそうではなさそうだった。薬指をじんわりと締め付けられているような感触があった。

 エンゲージリングという言葉が、突然浮かんできた。

 この連想はヤバい。本気でそう思った。

 いくら女の子にモテないとはいえ、パソコン相手にエンゲージリングはないだろう。

 自分に突っ込みをいれたが、電流のようなものは次第に強くなった。やがて指先までビリビリ震えだした。

 漏電?

 あわてて手を離そうとしたが、両手はノートパソコンに吸い付けられた状態になっていた。

 こうなれば、どうにでもなれ。

 腹をくくって逆らうのをやめると、薬指の電流は小さな生き物が動くように、腕の中をゆっくりと移動しはじめた。そして左肩をすぎたあたりから徐々に心臓のほうに向きを変えた。

 まさか、心筋梗塞?

 夢も希望もない言葉を連想した僕の目の奥で、淡い光が光った。

 残像の中で、ほんの少しの間やわらかい何かが動いたような気がした。

「トリエステだよね」僕は叫ぶように繰り返した。「トリエステだよね、君は」

「あったり前でしょう」

 懐かしい声に涙が出そうになった。

 しかし、気になることがあった。声の方向だ。ノートパソコンは目の前。なのに声はそこからではなかった。

「どこにいるの?」僕は辺りを見回した。「またどこかに行ってしまうんじゃないよね」

「さあ、どうでしょう」

 突き放すような声に、胸騒ぎを覚えた。

「質問してもいい?」僕は早口で訊ねた。

「いいわよ。でも一つだけ」

 そう言われて、考え込んでしまった。訊きたいことは山ほどあった。

「じゃあ」と僕は言った。「ずっとそばにいてくれるんだよね。もうどこにも行かないよね」

「それは、分からない」

 答えになっていなかった。だが僕には「分からないって、どういうこと?」と聞き直すしかなかった。

「あなたは運転免許を持っていたわよね。だったら知っているでしょう、一方通行」

 いきなりの道路交通用語。わけが分からなかった。でも「それぐらいは知っているよ……」と答えた。

 しかし一方通行からは、幼稚園生レベルの発想しか出てこなかった。

「君の声は、僕に聞こえるけど、僕の声は、君には聞こえないってこと?」

「ブー」

 トリエステは例の不正解の音で答えたあと、ふふふと笑った。

「惜しいな、惜しい。でもちょっと違う。お互いの声は聞こえるの。今の私たちみたいに」

 トリエステは僕の反応を待つようにそこで黙った。

 惜しいの言葉で、何を言いたいのか分かった。でも分からないふりをした。それを認めたくなかったからだ。

「どういうこと?」

「つまり、あなたが大声で叫んでも私には届かないってこと。でも勘違いしないでね。意地悪しているわけじゃないのよ。そういう仕組みなの。あなたと会話できるのは、私のほうから話しかけたときだけ。それが不服なら、もう二度と会えなくなるんだけど、どっちがいい?」

 僕は少し考えてから口を開いた。

「君の声は聞こえなくても、いつもそばにいてくれるんだよね」

 当然のように、その質問も無視された。

「そんなことより、現実と夢の仕分けをするほうが先でしょ」


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