あの日と似たような状況
アパートに帰った僕は、まず新聞販売店に電話をした。
「旅行に出かけることになりました。帰ってきたら、またお願いします。それまで新聞を止めてください」
それから、買い物にでかけた。
その日僕が購入したのは、次の品物。
ウイダーインゼリーと、カロリーメイト。36個入りを一箱ずつ。
リポビタンD、ユンケル、リゲイン、アリナミンを10本ずつ。
アクエリアスとポカリスエットは、各6本。これは一リットル入り。
一度で運べる量ではなかったから、バイクを数回走らせた。
「言い伝えによると、何もしちゃいけないらしいよ。薬も祈祷も効果無し。熱が出てくるのを待つだけでいいんだよ。布団を焦がすほどの高熱に見舞われることもあれば、ほんの微熱ですむ場合もあるんだってさ。でも、最低でも三日間は続くらしい。気心のしれた人に、看病を頼んでおいたほうがいいかもしれないね」
とお婆さんは言ったが、気心の知れた友人ば東京のPだけだ。
となれば、自分で何とかしなければならない。
「さあ、いつでも来い」
僕は腕組みをして、要塞化した感のあるベッド周りを見回した。
僕が寝るスペース以外を埋め尽くしているのは、咀嚼の必要のないゼリー食品。栄養ドリンク。スポーツ飲料。それと着替え用の衣類とタオル。それらが、均等に配置してある。
これなら、高熱で意識がもうろうとなった時でも、手を伸ばすだけでいい。
汗を拭いたタオルや着替えた衣類は、ベッドから離れたところに放り投げることにしよう。部屋を散らかすのは性分に合わないが、この際しかたない。
体温の上昇は急激にくるらしい。だったら、初期段階で気づいた方が治りが早いかもしれない。
久しぶりに体温を測ってみた。しかし、何回計っても、36度5分のままだった。
この分じゃ、今日は大丈夫そうだな。
心に余裕をもった僕は、お婆さんとのやり取りを、ICレコーダーに吹き込んだあと、晩飯にとりかかった。
手のかかる料理は、当分食べられないかもしれない。
そう思って、スーパーの総菜コーナーで買ってきた筑前煮と肉団子とカニマヨサラダを、箸で突いていたときだった。
一瞬、体が浮いたような感じがした。
地震かな?
箸を置いて、後ろ手をついて天井を見上げてみた。だが、蛍光灯のヒモは静止したままだった。
気のせいだったようだな。
再び箸に手を伸ばそうとしたところで、これと似たような状況を経験したのを思い出した。
いつだったっけ? どこでだったっけ?
すぐ分かった。
あの日だ。初めてお婆さんの家に行った帰り際だった。
「ありがとうございました。今度は土産を持ってうかがいます」
ナップザックに入れたノートパソコンを胸に抱いて、礼を言ったとき、仄かな甘い匂いが漂っているのに気づいた。
「このあたりに、クチナシの花が咲いているんですか?」
と訊くと、お婆さんはタイサンボクという花の名前を口にした。
僕は、タイサンボクという花を知らなかった。
「白くて大きな花だよ。白モクレンに似ていて、とても上品な匂いがするんだ」
お婆さんは、両手で二十センチほどの円を作って見せた。
「この辺りにもあるんですか? その花は」
と訊くと、お婆さんは急に黙り込んだ。
「どうしたんですか?」
と言う僕に、お婆さんが、何か言おうとしたとき、僕の耳元で囁くような声がした。
「はやく、二人っきりになりたいんだけどな」
そうだ。今と同じように、体がふわりと浮いたのは、 あの声の後だった。