相性の悪い自販機との再会
「あっ」
思わず小さな声が出た。
頭をガツンと殴られて、我に返ったような気がした。
どうして、こんな単純なことに気づかなかったのだろう。
たしかに、Pが指摘した通り。ここは、元、薩摩七十七万石の城下町。
小学校の授業でも習ったが、地元の人間にとっては、常識以前の話。市内のあちこちに各宗派の寺が点在するが、誰も門前町だったとは思っていない。
「ちょいと、ヤバいことになっているのかもしれない」と僕は言った。
「何が?」
「俺の記憶回路。きっと頭のどこかが狂っている」
本気で心配している僕に、Pは呑気な声で、
「どんなふうに?」
と訊いた。
僕は少し考えてから答えた。
「ここ数日、何かがおかしいんだ」
そこでトリエステの話を持ち出そうと思ったが、やめた。
三日続きの同じ夢から始まった一連の出来事は、自分の中でも整理できていない。
ここで焦りは禁物。
こんがらがった糸を一本一本ほどくように、順を追って解決していくほうが良い結果がでそうだ。今は具体的なことは言わないほうがいい。
「実際に体験したことと、記憶に残っているものが、一致していないような気がするんだ。この際、病院で診てもらおうかな……」
言葉を探しながら言ったからだろう。Pの耳には、僕の声が弱々しく聞こえたらしい。
「何言ってんだよ」 Pは僕を励ますような声で言った。「その女の子が、だれもがぶったまげる美人だっただけだよ。お前の脳波を、グチャグチャにかき回すだけの美人にはなかなかお目にかかれないぞ」
Pが僕をからかおうとしているのが分かった。
映像を学ぶカリキュラムの中で、グラビアアイドルを目指す女の子をモデルにした撮影会があった。
全員が胸を大きく開けた水着。悩ましげなポーズ。何かを訴えるようなカメラ目線。撮影者のすぐ横で、何のてらいもなく着替えるモデル。
約一時間の撮影会のことを、僕は今でも思い出すことができない。
「あのときと一緒なんだよ。お前は女の子の近くにいくと頭の中が切り替わってしまうタイプの人間だからな。早い話、この俺とそっくり」
いつもなら、女狂いの人間と一緒にしてもらっちゃ大迷惑、と返すところだが、それができなかった。
「でも、俺の聞き間違えじゃないと思う。その女の子との会話は、映像として記憶の中に刻み込まれているんだ。間違いない。あの子は門前町だと言った」
意地を張ったつもりはなかった。それが正直な気持ちだった。
「やれやれ」Pはため息交じりに言った。「いつものお前らしくないけど、そう思ったほうがいいのかもしれないな。自分が正しいと思わなきゃ、何を信じて生きていけばいいのか分からなくなっちゃうもんな」
僕はPの言葉を、頭の中で繰り返してから言った。
「ありがとう。何が本当だったのか、自分で検証してみるよ」
次の日の朝十時に家を出た。
相変わらず天気は良かった。
まず向かったのは、製材所跡地の自動販売機。市街地を抜けて海岸道路に差しかかったあたりで、潮の香りがしてきた。
いつものように、軽快なエンジン音を奏でるホンダカブ号。でもハンドルを握る僕の手は、おかしいくらいにぎこちなかった。
もし、あの自販機自体が現実の世界に実在しなかったら、その時点で引き返す。そしてそのまま病院に直行する。アパートを出るとき、そう決めていたからだ。
しかし、僕の脳は、それほどおかしくはなかった。
JAのガソリンスタンドを過ぎたところで、製材所跡地に置かれた自販機が見えてきた。 何でもない風景。なのに、ほっと胸を撫で下ろした。
ちょうど、自販機の横に白いワンボックスカーが停車したところだった。
降りてきたのは、中年の男女五人。
僕は、バイクのスピードを緩めながら心の中で念じた。
だれでもいい、あの中の一人がコーラを買ってくれ。
僕の願いが通じたわけではないだろうが、二人がコーラを買うのが見えた。
空き地の端っこにバイクを停めて、海を眺めるふりをしながらワンボックスカーを見送った後、僕は自販機の前まで歩いて行った。
自販機には、故障の張り紙も、売り切れのサインが点いた商品もなかった。
この前来てからそれほど経っていないのに、妙に懐かしい気がした。
「覚えているかい」
僕は自販機に呼びかけた。
もちろん返事はない。でも、僕はつづけた。
「この前は、君から嫌われたようだけどね」
と言って、財布から取りだした百円玉二枚を自販機に入れた。
「でも、おかげさまで面白い、いや、奇妙な体験をすることが出来たよ」
500ミリリットル入りの、コーラのボタンを押した。
カシャ、カシャ、
聞き覚えのある乾いた音。
「ついさっき、二人の人がコーラを買ったみたいだったけどね。今回も、僕は嫌われたのかな」
そう言いながら、戻ってきた二枚のコインを、もう一度投入口に入れた。
三度試してみたが、結果は変わらなかった。
僕は前回と同じように、二枚の百円玉を手のひらに載せて眺めた。
どこからどうみても、変形しているようには見えなかったし、傷さえなかった。
僕は自販機に視線を移した。
「君が意地悪をしているんじゃないってことは、よく分かっている。こんなことは良くある話なんだ。だから、僕のことは心配しなくてもいい。もう少し走ったところに、コンビニがあるんだ」
そこで言葉を切った僕は、周りに誰もいないのを確認してから、さらにつづけた。、
「君は知らないだろうけど、そこには郷土史家を目指している可愛い女の子がいるんだ。実を言うと、その女の子と縁が出来たのは、君と僕の相性が悪かったおかげなんだ。何か進展があったら、報告にくるよ。じゃあ、またね」