記憶が消える前に
誠に申し訳ありませんが、この小説は『腹式七回シネマ館』の【第二章】になります。
第1章『それは誰も知らない映画館』から読んでいただければ幸いです。
通話記録という言葉で、頭の中のモヤモヤが消えた。と同時に、今何をしなければならないかが分かった。
「通話記録と言われましたよね」と僕は言った。
「さようでございます」相手は事務的な声で答えた。「当社では通話記録のすべてを録音しております」
言葉づかいからすると、社員教育の行き届いた会社らしい。僕も相手に合わせることにした。
「その音声記録を聞かせてもらうことができますか?」
「もちろんです」
情報漏洩が懸念される昨今、絶対に理由をしつこく聞かれると思った。それだけに、僕は拍子抜けした。
「本当にいいんですか?」
と念を押した。
「ご本人様でしたら可能です。お客様へのサービス向上のための録音でございますから」
「いつでもいいんですか?」
「前日までにご連絡くださると、ありがたいんですが。お客様をお待たせしなくてもすみますので」
話は簡単に決まった。
明日の午後三時。僕が出向くことになった。
電話を切ってから、改めて室内をじっくり見回した。そして思った。
頭の中を切りかえる必要がある。
派遣会社に電話するまで、ここは夢の世界だと思い込んでいた。しかし、そうではなさそうだ。
今僕はマトリョーシカ方式の夢の中にいるのではない。さっきの白い世界と暗闇の世界は、単なる夢。
ここは現実の世界に間違いない。
現実に起きたことと、夢でみたものとが記憶の中でごちゃ混ぜになっているだけ。その区別がつかないだけ。
根拠なんてなかった。だが確信はあった。先ほどまでの白い世界と、ここの空気感がまったく違っていたからだ。
後から考えると、携帯電話の手触りに覚えがあったことと、電話の保留音がレット・イット・ビーだったからだろう。でもそのときは、空気感以外には何も考えられなかった。
ぱちん、と音がしたわけではない。でも、自分の頭の中が切り変わったことがはっきり分かった。
ここは現実の世界。あのノートパソコンがここにあることに何の不思議もない。それなりの理由がある。その理由は自分で暴く。
気持ちが落ち着いた僕は、喉の渇きを覚えた。だが、その前にしなければならないことがあった。
記録だ。
実際に体験したことと違って、夢の内容が記憶の中にとどまる時間は短い。夢の記憶が残っている間に、何かに書き留めておかなければならない。僕はそう思った。
キーボード入力という文明の利器の恩恵に感謝しながら、デスクトップパソコンを立ち上げた。
僕は、小学生のころからほとんど字を書かなかった。
日常的な漢字は読める、でも書けない。当然、字はきたない。ミミズが酔っ払ったような字。自分が書いたものが読めないときもある。
しかし、タイピングがはやいわけではない。はっきりいって遅い。右手の人差し指一本で押すからだ。
パソコンでの映像編集ならそれで事足りる。でも、文章となるとカタツムリがフルマラソンに初出場するようなもの。
漢字を知らないということは、言葉を知らないということでもある。
三保の松原から見上げる富士山の写真を撮ってこい。そして世界文化遺産に選ばれた理由を説明してみろ。
と言われたら、自分なりの絶景スポットを探し出す自信はある。写真なら何の説明も要らない。撮った写真を差し出すだけでいい。
しかし、あの絶景を文章で伝えてみろと言われたら、即ギブアップ宣言しなければならない。世界有数の美しさを誇る富士山のシルエットさえ文章では伝えられない。
味の善し悪しを、うまいと、まずいの二通りの言葉しか知らない人間が、グルメリポーターに挑戦するようなもの。
僕の頭の中に残ってるのは、文章ではなく、映像なのだ。遅々として進まない映像の文章化に、我ながら苛々した。
でも、そんなことは言っていられなかった。記憶に残っている映像の一部が消えかかっているのに気づいたからだ。
どうしよう。このままじゃ、話の順番が入れ替わる。相手のセリフも自分が言ったことも忘れてしまう。最悪の場合、すべての記憶が消えてしまう。
そこで閃いたのが、キーワード。
各場面の一番印象に残るシーンや会話を書き残しておけば、なんとかなるかもしれない。
実を言うと、腹式七回シネマ館の第1章【相性の悪い自動販売機】から【暗闇で鳴り響く音】までのサブタイトルが、僕にとって、記憶を呼び起こすためのキーワードだったのだ。