クライモリの部屋
4 2013/09/29
昼食が終わると多々木さんは身支度をはじめた。外出するらしい。
「それじゃボクは外に出て、そのまま直帰するから、あとは若林さんに教わってください」
彼はドアのところで一度ふり返ると、
「よろしく、ワカメっ毛」と言って出て行った。
と思ったらすぐにまたドアが開いて、
「セクハラするなよ」と言って今度こそ出て行った。
それがオレに向けられた警句だったのか、あるいは彼女か、よくわからなかった。たいしてウケもしなかった。
「ワカメっ毛って呼ばれているんですか」
オレが訊くと彼女は困ったように笑った。
「社長は本当に変わっているんです。いちど呼び名が決まると、もうそれが定着するっていうか」そして彼女はオレを見た。「山元さんの呼び名も、たぶんもう決まっています」
「えっ」
「ヤマゲンだと思います」
「あはは……」
オレは苦笑した。メジャーな山本さんではなく、オレは山「元」だった。学生時代から、しょっちゅう言われてきたわ。
若林さんの向かいのデスクをあてがわれた。パソコンと電話と、必要なものはそろっているようだ。なにをやるべきか、まったくわからなかったけれど。
「えっと、ですね。定時は基本的に一七時です。それ以降は残業になりますが、残業は社長の許可がないとできません。だから今日は一七時であがってください」
「わかりました」
「では、さっそくお仕事です」
彼女の指示により、オレは目の前のパソコンを立ちあげた。個人用のユーザIDとパスワードを与えられたので、それでログインした。
「インターネットを開いてください」
「はい」
「『お気に入り』から『クライモリの部屋』へ移動してください」
言われたとおりにした。なんだこれ。
「これは、誰かのブログ……ですか」
「そのようです。ちなみに、アタシはそのブログのことは全然知りません。読んだこともないですし」
「オレは、どうすれば」
「そのブログをよく読んでおいてください、というのが社長の指示です」
「あの」オレは訊いた。「社長がどういう意図で、っていうのは、若林さんはご存知ですか」
「いいえ」即答だった。「社長はムチャ振りの天才ですから。ただ、アタシの経験上、仕事に関係のないことはいっさい振ってこないと思います。最初から指示を明確にしてくれたらありがたいんですけど、社長はこういう謎かけみたいのが大好きで」
「……わかりました」
あのオヤジ、やはりそうとう食えない人物だ。
すでに一三時をまわっていたので、定時まであと四時間足らずだ。
ぼんやりとネットを眺めているだけで時給がもらえる、と思えばおいしい話かもしれないが、現実はそう甘くないだろう。
この『クライモリの部屋』とかいう、どこかの暗そうな人間のブログをひたすら読めと言われた。多々木さんはきっと、その内容について詳しく訊いてくるだろう。
そうか、とオレは納得した。多々木さんはこのブログを読んでいない。オレに読ませれば自分で読む手間が省けるからだ。
けっこう責任重大だなと感じた。オレはいわばワトスン役だ。ワトスンが出鱈目な情報をホームズに与えれば、さすがの名探偵といえども推理の道筋を違えてしまう。
多々木さんはそこまでオレを信用してくれているのか……会ってまだ間もないオレを?
そうか、これは腕試しか。出来ばえの如何によってはお払い箱、なんてことも有り得るかもしれない。いきおい真剣にならざるを得なかった。