エクリプスの色
カモ類のエクリプスをご存知か。
オスのカモは非繁殖期になると、メスと同じ地味な羽に変わるのだ。繁殖期の派手な羽色は、人間でいうオシャレをして異性にアピールのためだ。
おれはいつでも非繁殖期だ。
中学になると周りは女の子たちにいいところを見せようと、髪型を気にしたり、私服もおのおののオシャレを体現しようと模索していた。
高校、大学と進むにつれ、その傾向は強まっていった。
「くだらねぇ……」
そう思いながら、おれは周りの変化を冷笑していた。
社会人になり、スーツを着るようになると、そのオシャレとやらを余計に煩わしく思うようになる。
なんだ、スーツさえ着ていればオシャレなんて関係なくなるじゃないか。
しかし、スーツの中にも美醜があるらしい。
やれ、襟の形が、ボタンの色が、ジャケットの色、革靴のデザインに、ネクタイ……。挙げればもう、キリがない。
「見ろよ、パンツの丈が野暮ったい。ああはなりたくねぇな」
おいおい、そこまで見るのか。おまえら、他人を気にしすぎだろう。
服なんて着れればいいじゃないか。イオンで買ったスーツでも、ブランドものでも、違いなんてないだろ?
だが、彼女に出会ってしまった。
「中途採用の花森絵梨です。前は販売の仕事をしていました」
温度のこもった、安心感のある声だった。おれは茶髪のポニーテールの彼女の第一声に耳が釘付けになった。
「じゃあ、席は奥で。教育係は山田を任命する」
運命なんてものはなかった。
教育係の山田は部署内でもスタイルも顔も、人当たりもいいやつだ。対しておれはどうだ。顔もぱっとしない、スーツは野暮ったく、引っ込み思案。勝負にもならないだろう。
エクリプス……。カモたちもこんな思いで繁殖羽に変わっていったんだろうか。
いやいや、彼らは鳥類で人間じゃない。あれは本能に近いものだろう? でも、人間にも本能はある。
そうか、これも人間が動物である証明じゃないか。
左向いの彼女をちらりと見ると、こちらに気づいたのか「新人の花森です。よろしくお願いします」と挨拶された――笑顔で。
おれは目を泳がせながら「戸髙哲也、です」と返事をするのがやっとだった。
――ああ、うまくいかねぇな! せっかく愛想よく声をかけてくれたのに。おれはなんでこんなにも自信がないんだ!
それなら自信をつければいいんだ。自信、じしん……。たしか、ネットで読んだ記事には、見た目を磨けばいいって書いてあったっけ。ちょっと前ならそんなものも鼻で笑って流し読みしていた。が、改めて自分の不甲斐なさを目の当たりにしたものだから、わらにも縋る思いだった。
トイレに寄った時に、鏡を前におれは両頬を手で押さえて、感触を確かめた。肌は毛穴とニキビ跡が目立ち、剃り残した髭がチクリと当たる。
手を離し、自分と目を合わせる。髪は長く、ボサボサで、よく観察するとところどころ剃り残しも目立つ。まだ二十代なのにぱっと見は三十半ばかもしれない。
「お、戸高。どした?」
「いやぁ、まだ二十七なのに、老けてるなぁと思いまして」
声をかけてくる同僚に目もくれず、鏡を見続ける。
「あれ? 三十三くらいじゃなかったんだ。あー、まずは髪型とかなんとかすればよくね? 内勤だけど、一応客も来るんだしさ」
「そうっすよね……」
同じように鏡を覗く同僚は三十代なのに、おれより若く見える。
比べるとおれの惨めさが伝わってきた。
トイレをあとにして、なにから手を付ければいいのかを検討する。
髪、スーツは仕事帰りでもすぐになんとかなる。店員に相談すればこっちで調べる手間も省ける。
肌は……そうだな、ドラッグストアでスキンケア商品をみればいいだろう。効果は気長に待つしかない。並行して最近の服のトレンドを調べるために、ユーチューブを見ようか。ついでに男性向けスキンケアも。
席に戻ると、山田と花森さんが仲良さそうに談笑している。おれの心臓と額のあたりがもやもやと糸が絡まっていくのがわかる。
これが、嫉妬ってやつなのか。ああ、苦しいな。どうにもできない絡まった糸を、どうやってほどいたらいいのか、また頭を悩ませる。この感情に支配されないように、おれは帰りに寄る美容室の予行練習に集中した。
「ご予約の戸髙様ですね。こちらにどうぞ」
こんな女性客ばかりの店だとは知らなかった。美容室は開放感と清潔感があって、照明も明るい。店にいる女性客たちは美容師に髪をいじられながらリラックスしたようすで笑っている。
おれは今の悩みを正直に話すと、担当美容師は親身に聞いてくれた。
「……なるほど。戸高さんはいつも千円カットで三ヶ月に一度、カットしているんですね。それもいいとは思うんですが、お若いのでもっと手入れもしやすく、清潔感のある髪にしたほうが似合うと思います。サイドと後ろを短くして、前髪も今より短く。全体的にさっぱりしましょう。ワックスは付けたくないとのことなのですが、もしつけるなら毛先を全体的に前目に持っていくと、より今どきっぽくなりますよ」
これは呪文だな。おれは言われるがまま、施術してもらった。
鏡を見ながら、美容師は服装についてもアドバイスしてくれた。男性美容師だったので、おれもリラックスして会話を楽しめた。
「おお、やっぱり似合いますね! 戸高さん、見違えましたよ」
そう言って手鏡でサイドや後ろを確認して、前を見ると、印象が変わった自分の姿に、興奮してしまった。
「うわ、これ、おれですか? 美容師さんってすごいですね!」
美容師も鼻高々といったふうで、会計をすませる。
「もし、メンテの時に千円カットを利用するなら、『毛先を全体的に短くしてください』って言うといいですよ。似合ってます、戸高さん」
「なにからなにまで、ありがとうございます。また利用させてください」
それなら、と名刺をくれて、おれは店を出た。
スーツ、革靴、ネクタイ。
このあたりは専門店に行くと、店員も親切に教えてくれた。
灰色のスーツより、紺色や同じ灰色でも生地の織り方で質感を重視したほうが、キチンと感とやらが出るらしい。ちんぷんかんぷんだったが、試着して腕を動かすとその意味がわかった。
こういうのは理屈ではなく、感覚で掴むものなのだろう。
おれは冬に見たヒドリガモを思い出した。
エクリプスのヒドリガモは茶色い羽をまとって、かわいらしい声をあげていた。
繁殖羽のオスはオレンジの頭をしゃくって指笛のような声を出す。メスに追い立てられるのも、愛嬌があって観察しがいがあった。
おれはエクリプスから繁殖期に入ったのだろう。
なんてない、きっと勝ち目なんてない女性からよく思われたいという思いで、こうして紙袋を引っ提げて帰路につく。
明日はみんなに散々からかわれるんだろう。
でも、いいんだ。花森さんに振り向いてもらえなくても、おれにきっかけをくれただけで、それだけで十分だ。




