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内側で増える恋人-間宮響子-

作者: 江渡由太郎 原案:J・みきんど
掲載日:2026/04/16

 ――それは「相談」という言葉で括るには、あまりにも遅すぎた。


 間宮響子のもとにその男が現れたのは、梅雨の終わり、湿気が腐臭に似た重さを帯び始める頃だった。


 ドアベルは鳴らなかった。

 気づいた時には、玄関の内側に“立っていた”。


「……失礼、します」


 声は細く、喉の奥で何かに引っかかるように震えていた。

 響子は振り返らずに言った。


「勝手に入ってこないで。――でも、来たってことは、もう“外にいられない”のね」


 沈黙。

 そして、靴底がじわりと床に貼りつくような音がした。

 男は二十代前半、痩せすぎて骨格が浮き出ている。目の下には深い隈。唇はひび割れ、乾いているのに、どこか濡れて見えた。


「……柏木、悠人です」


 名乗る声の最後が、わずかに“二重”に聞こえた。

 響子はその違和感を無視し、彼を座らせた。

 湯気の立つ茶を差し出すが、柏木は手を伸ばさない。


「飲めないの?」


「……“飲ませてもらえない”んです」


 その瞬間、部屋の温度が一段階落ちた。

 響子は、ようやく彼の背後を視た。

 ――いる。


 否、“貼りついている”。

 人の形をしているが、顔がない。いや、あるはずの場所が、何かに押し潰されたように歪んでいる。

 それが、柏木の背骨に沿って、ぴたりと密着していた。


 まるで、もう一人の身体が、彼の中に入りきらず、外にあふれているように。


「……話して」


 響子の声は低く、冷静だった。

 柏木は、ぎこちなく笑った。


「僕、男が好きなんです」


 それは、告白というより、確認のようだった。


「大学で、同じサークルの人と付き合ってました。……でも、その人、急にいなくなったんです」


「失踪?」


「……いえ、“消えた”んです」


 柏木の喉が、ぐちゅ、と鳴った。


「最後に会った夜、僕の部屋で、一緒に寝て……目が覚めたら、隣にいなかった。でも――」


 彼は、震える手で自分の胸を押さえた。


「中に、いるんです」


 沈黙。

 その言葉と同時に、響子の視界が“ずれた”。

 柏木の身体の内側、肋骨の隙間から、何かがこちらを覗いている。


 目だ。

 二つではない。

 いくつも、いくつも。

 ぎっしりと詰まった、濡れた眼球。

 それらが一斉に、響子を見た。

 ――見返している。


「……それから、変なんです」


 柏木の声が、少しずつ低くなる。


「食べても、満たされない。水も、喉を通らない。でも、夜になると……“欲しがる”んです」


「何を」


 柏木は、ゆっくりと笑った。

 その笑顔は、彼のものではなかった。


「――“人間”を」


 その瞬間、背後の“それ”が、ぐにゃりと動いた。

 響子は即座に印を切り、呪を叩きつけた。

 空気が裂け、低い悲鳴が部屋を満たす。


 だが。

 ――効かない。


 否、違う。

 “効いているのに、消えない”。

 呪が命中するたび、背後の存在は削れる。だが、削れた分だけ、柏木の体内から“補充される”。

 増えている。

 中で、増殖している。


「……遅いわね」


響子は呟いた。


「何が、ですか」


 柏木が首を傾げる。

 その動きが、わずかに“ずれて”いた。

 一拍遅れて、別の何かが同じ動きをなぞる。


「あなた、“取り憑かれてる”んじゃない」


 響子は、はっきりと言った。


「もう、“飼ってる側”よ」


 静寂。


 次の瞬間。

 柏木の口が、裂けた。

 顎が限界を無視して開き、その奥から、ぬるりと  

 黒いものが溢れ出す。

 それは舌ではなかった。

 無数の細い腕の束。

 それぞれの先に、小さな手。

 そして、その手のひらすべてに――目。


「だって、彼が言ったんです」


 柏木の声と、それ以外の声が重なる。


「“一つになるのが愛だろ?”って」


 腕が、床を這う。

 畳が、湿る。

 腐った水の匂いが満ちる。


「最初は、苦しかった。でも……だんだん、気持ちよくなってきて……」


 彼の腹部が、内側から膨らむ。

 皮膚が波打ち、その下で何かが移動している。


「今は、もう――」


 ぼこり、と肋骨の隙間から、“顔”が押し出された。

 それは、消えた恋人の顔だった。


 だが、目も口も、すべてが内側に向いている。

 皮膚の裏側から、こちらを見ている。


「離れたく、ないんです」


 響子は、一歩も動かなかった。

 ただ、静かに目を閉じた。


「……もう無理ね」


 その声には、わずかな哀れみがあった。


「“境界”が、ない」


 柏木が……否、“それ”が笑った。


「先生、助けてくれるんじゃないんですか?」


 響子は目を開いた。

 その瞳は、完全に冷え切っていた。


「助けるわよ」


 一瞬の希望が、柏木の顔に浮かぶ。

 しかし次の言葉で、それは崩壊した。


「“外に出さない”ことで」


 結界が展開される。

 部屋ごと、空間ごと封じる強制隔離。

 だが、それは同時に――

 中のものを、完全に閉じ込める檻でもある。


「待って、待ってください、先生、僕――」


 柏木の声が、人間のものに戻る。

 その顔に、初めて“本当の恐怖”が浮かんだ。


「まだ、意識はあるんです! まだ、僕は――」


 その言葉の途中で、喉が潰れた。

 内側から、何かが溢れ出す。

 目。

 腕。

 顔。

 顔。

 顔。


「いやだ、いやだ、いやだいやだいやだ――」


 その絶叫が、途中で途切れる。

 代わりに、無数の声が、同時に囁いた。


「だいじょうぶ」


「ひとりじゃない」


「ずっといっしょ」


「なかで、いきてる」


「なかで、みてる」


「なかで、ふえてる」


 響子は、最後まで見届けた。

 それが、彼女の仕事だった。

 やがて、すべてが静止した。


 柏木だったものは、ただの“器”になった。


 だが――

 それでも。

 かすかに、動いている。


 内部で。

 増え続けている。


 響子は結界を強化し、背を向けた。

 扉に手をかける直前。

 背後から、声がした。

 小さく、かすれた、確かに“彼の”声。


「……せん、せい」


 響子は振り返らない。


「……ぼく、まだ……ここ、に……」


 その声に、別の声が重なる。

 否、重なっているのではない。

 “混ざっている”。


「ここだよ」


「ここだよ」


「ここだよ」


「ここだよ」


 無数の声が、彼の声を塗り潰す。


 響子は、静かにドアを開けた。

 そして、閉めた。



 数日後。

 間宮響子のもとに、また一通の相談メールが届く。


件名:

『彼氏が、最近“少し変なんです”』

本文:

『夜になると、体の中で誰かが動く気がするって言うんです。でも、きっと気のせいですよね?』


 添付ファイルが一つ。

 開いた瞬間、画面いっぱいに広がる。


 暗い部屋。

 ベッド。

 その上で、眠る男。

 そして。

 腹部の皮膚の下で――

 無数の“小さな手”が、こちらに向かって、

 ゆっくりと、

 手を振っていた。

 ――それは、もう“外”には出ていない。


 だが、“中”で増え続けている。



 そして。

 愛という名前で……次の器を……待っている。



 ――(完)――

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