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まだ死んでない……。
人間そう簡単に死ねるようなものではないらしい。
冷たい。
指先の感覚はとうの昔に消え、泥に埋もれた頬からは体温が容赦なく奪われていく。
呼吸をするたび、喉の奥が氷を飲み込んだように痛んだ。
――ああ、早く逝かせて。もう疲れたわ……
意識の混濁の中で、私は他人事のようにそう思った。
公爵令嬢として、あるいは「砂の聖女」として、私は常に誰かのために魔力を捧げてきた。
不毛なアルカディアの地を支え、崩れゆくインフラを繋ぎ止め、民の為と 心の中では割り切っていたが、贅沢三昧の王族たちの足元を固めてきた十年間だった。
その幕引きが、この名もなき国境の泥濘だとは、何とも皮肉な喜劇。
不意に、降りしきる雨の音が遠のいた。
代わりに聞こえてきたのは、規則正しく、重々しい、硬質な軍靴の響きだ。
泥を撥ね、湿った空気を切り裂いて近づいてくるその音は、死神の足音のようにも聞こえた。 このまま踏み潰されるのかも。痛いのは……嫌なのに。
「……報告にあった通りだな。しかし、酷いものだな。アルカディアの王族がここまで腐っていたとは」
頭上から降ってきたのは、氷の礫のような声だった。
重厚で、一切の情を排した、支配者のような響き。
私は、鉛のように重い瞼を、数ミリだけ押し上げた。
視界に映ったのは、黒銀の甲冑に身を包んだ巨躯。
雨を弾く漆黒の外套が風に翻り、その奥に潜む鋭い双眸が、倒れ伏す私を品定めするように射抜いている。
ああ、彼はゼノン・ハルシュタット。
この北の地に君臨する軍事強国、ハルシュタット王国の次期皇子。 一度 見かけたことがある。
「殿下、息はありますが、極度の衰弱です。……それと、これを見てください」
傍らに控える騎士が、松明を私の方へ向けた。
その時、私の指先から、ほんの僅かな魔力が漏れ出した。
無意識の、生存本能だったのかもしれない。
泥まみれの私の手から、一握りの「砂」がこぼれ落ちた。
それは、夜の闇の中でも、雨のしぶきを浴びてもなお、自ら発光するかのように白く輝いていた。
ただの砂ではない。
粒子の大きさが極限まで均一化され、不純物を一切排除した、魔導触媒としての究極の完成形。 おそらく、私の魔力が凝縮して漏れてたのだろう。
泥の中に落ちたそれは、ダイヤモンドの粉末を散らしたように、泥濘の中で異常なまでの存在感を放っていた。
「……ほう、これは」
ゼノンの目が、僅かに細められた。
彼は膝を突き、汚れるのも厭わずにその砂を指先で掬い取った。
「触れただけでわかる。この密度、この純度。我が国の技術局が心血を注いでも作り出せなかった、高純度魔導砂か。……おい、この女を運べ。死なせるな。ハルシュタットの国益にかけてな」
それが、私の意識が完全に途切れる前に聞いた、最後の言葉だった。
────
一方その頃、アルカディア王国の王都は、勝利と歓喜の余韻に包まれていた。
王宮の私室で、アラルリック王子は上質なワインを傾け、窓の外に広がる街並みを眺めていた。
隣には、薄桃色のドレスに身を包んだミラベルが、甘えるように彼の肩に頭を預けている。
「ようやく、あの陰気な砂女がいなくなって、空気が清々したわね、アラルリック様」
「ああ。砂を出すだけの無能が、聖女の皮を被って私の隣にいたと思うだけで反吐が出る。これからは君という、真の輝きを持つ聖女がこの国を導くのだ。アルカディアは、さらなる黄金期を迎えるだろう」
アラルリックは満足げに笑い、グラスを置いた。
彼にとって、エルネスタがいなくなったことは、単なる目障りな置物を片付けた程度の認識でしかなかった。
だが、異変は既に、静かに始まっていた。
王子の机の上に置かれた、最新型の魔導時計。
極小の歯車が噛み合い、砂を動力触媒として正確な時を刻むはずのその宝飾品が、不意に、小さく「ギギ……」と不快な音を立てた。
「……? 時計が止まったのか?」
アラルリックが怪訝そうに時計を手に取る。
時計の内部で使われている「軸受けの砂」――それはエルネスタがかつて納品した高品質なものだった。
本来、砂魔導の道具は、定期的に魔力を含んだ砂を補充、あるいは交換しなければならない。
エルネスタがいた頃は、彼女が国中の貯蔵庫に直接砂を注ぎ込んでいた。果ては一人で支え、周囲からは蔑まれるという状況下の影響で、彼女の生み出す砂も、いつからか品質の劣化が始まっていた。それに気が付いたエルネスタ自身は、たった一人で国中の砂の劣化を必死に防いでいた。
あるいは、劣化が始まった砂を無言で、少しでも状態の良い、新しいものに差し替えていた。
だが、すべての供給源である彼女はもう、この国にはいない。
そして、彼女がこれまでに「高品質化」していた砂も、劣化が進み、効力は数日しか持たない。
彼女の維持魔力が遮断された砂は、ただの「脆い石の粉」へと戻り、潤滑剤としての機能を失っていく。
「なんだ、この砂は。真っ黒じゃないか」
時計の隙間からこぼれ落ちたのは、先ほどまでの輝きを失い、油のように黒ずんだ泥の粉だった。
「……おい、技術局を呼べ! せっかくの時計が壊れたではないか。すぐに修理させろ!」
アラルリックの怒鳴り声に、衛兵が慌てて走り出す。
彼はまだ気づいていなかった。
それが、これから国中で巻き起こる「文明の機能停止」の、ほんの序章に過ぎないことに。
────
熱い。
あるいは、冷たいのだろうか。
次に目を覚ました時、私は柔らかなベッドの上にいた。
だが、アルカディアの王宮のような、過剰な装飾と甘ったるい香りに満ちた場所ではない。
石造りの壁、磨き上げられた機能的な家具。
無駄な飾りの一切を削ぎ落とした、鉄と規律の匂いがする部屋。
「……ようやく目が覚めたか」
低い声に弾かれるように顔を向けると、窓際の椅子に、あの男――ゼノンが座っていた。
彼は分厚い書類を捌きながら、冷徹な瞳で私を凝視してくる。
「こ、ここは……?」
「ハルシュタット王国、第一要塞の医務室だ。貴様は我が国の国境を侵した罪人だが、今は『極めて貴重な資源』の所有者として扱われている。感謝しろ」
資源。
その言葉に、私は乾いた笑いが漏れそうになった。
やはり、どの国に行っても、私は道具としてしか見られないらしい。
「……あの砂が、目的ですか?」
「当たり前だ。あんな代物、ハルシュタットのどの鉱山を掘っても、どの錬金術師を問い詰めても出てこん。貴様、何者だ? アルカディアの工作員か? それとも、ただの逃亡者か?」
ゼノンは立ち上がり、ゆっくりとベッドに近づいてきた。
彼の纏う空気は、暴力的なまでの重圧となって私を押し潰そうとする。
「私は、エルネスタ・クロム。アルカディアから……追放された砂女。無能の元令嬢です。」
「無能? 冗談はやめろ。あの砂を生成できる者が無能だというなら、我が国の技術局員は全員首を吊らねばならん。……アルカディアの連中は、よほど目が腐っているらしいな」
ゼノンはそう言うと、懐から小瓶を取り出した。
中には、あの泥の中から回収されたのであろう、私の砂が入っている。
「我が国は慢性的な資源不足だ。特に『砂』が致命的だ。鉄、銅、金、銀やネオジム、プラセオジム、リチウム、コバルト、ニッケルなど、すべて腐るほどあるが、それらを加工し、繋ぎ止め、魔導兵器を動かすための媒体となる良質な砂が足りん。建物もな。ガラスすら貴重品なりつつある。砂漠や海に溢れる劣悪な砂の類いは、我が国の魔導兵器は一時間の稼働でエンジンが焼き切れる。建築もままならん」
彼の言葉を聞きながら、私は自分の手のひらをそっと握りしめた。
アルカディアは「砂があるのに価値が分からない国」
ハルシュタットは「砂の価値を知っているのに砂がない国」
「……もし、私が協力すると言ったら?」
「話が早いな。助かる。貴様がその砂を我が国に供給すると言うなら、喜んで相応の地位と保護を約束しよう。だが――」
ゼノンは私の顎を、手袋越しに冷たく掬い上げた。
「嘘をつき、我が国を欺こうとするなら、その時は、国境の壁の礎に生き埋めにする。アルカディアの馬鹿どもへの警告としてな。ハルシュタットは無能には厳しい国だ。理解しているか?」
「ええ。……望むところです。あの国……アルカディアを支えるのは、もう疲れました」
私は、ゼノンの瞳を真っ向から見据えた。
裏切られ、捨てられた絶望の底で、私の中に一つの静かな焔が灯る。
私が注いできた情熱。
私が削ってきた魔力。
そのすべてが「無価値」だと切り捨てた人々に、本当の無価値とは何かを教えてあげる。
「私は砂を作れます。ですが、それはタダではありません。私は、私を正しく使い、私に価値を付けてくれる者のためにしか、力は使いません。私は機械ではなく、生きている人間です。」
ゼノンは、僅かに口角を上げた。
それは笑いというよりは、獲物を見つけた猛獣の歓喜に近かった。
「ふん、心配無用。しかし、いい目だ。ただの令嬢の目ではない。……取引成立だな、エルネスタ。貴様の『砂』が、この帝国の礎をどう変えるか、見せてもらうぞ」
窓の外では、依然として雨が降り続いていた。
だが、その雨音に混じって、どこからか「軋む音」が聞こえるような気がした。
それは、この王国の歯車が回り始めた音か。
あるいは――。
遠くアルカディア王国で、見せかけの平和が崩壊へと向かう、足音だったのか。
――こうして、死ぬはずだった砂女の私は、鉄の軍国で牙を剥き始めることになった。
砂の一粒一粒に、復讐と、再生の決意を込めて。




