第1話 沈みかけのボロ船で目が覚めたおっさん
鼻の奥を刺す、潮と錆、焦げた縄の匂い。
それは、三十年近く海に生きてきた男にとって、最も馴染み深い“現場の匂い”だった。
ゆっくりと目を開けると、
鉛色の空と、狂ったように荒れ狂う波。
頭上ではボロボロの帆が千切れそうになり、ロープが甲板を叩いている。
(……帆船か。しかも、えらく時代遅れの)
学生時代のウインドサーフィン、ヨット部で培った感覚が、自然と帆と風を読ませる。
が、それ以上に胸を刺す違和感があった。
(……いや、おかしいだろ。
俺、今朝まで自宅の布団で寝てたぞ)
瀬戸内のセメント運搬船で船長を十三年。
海で目覚めるのは珍しくないが、自宅からボロ帆船へ瞬間移動する経験は、一度もない。
そして――頭の奥で、ひとつの結論が静かに形になる。
(……異世界転移、か)
その瞬間。
ほんの一瞬だけ、胸の奥に重たい絶望が落ちた。
(……俺のFIRE計画、終わりか)
資産二億。
インデックス投資で“四%取り崩し”に入れば、死ぬまで手取り七百万。
ゆっくり海を眺めながら、残りの人生は――
(フィリピン人の嫁探すために、フィリピンパブ通い始めるはずだったのに……)
地味に重要な夢が、一瞬で霧散した。
(全財産パーの上で……ここで死ぬだけは絶対イヤだ)
だが絶望は、本当に“一瞬”だけだった。
すぐに、船体に雷が落ちたような衝撃が走った。
ゴッ!!
「うわっ! 今の何だ!!」
「下から水が来てる!! 浸水だ!!」
衝撃音の質だけでカイトは理解した。
(デカい流木だな……勢いがあれば、船底に穴が開く)
下甲板から悲鳴。
「穴だ!! 海水が吹き上がってる!!」
船長らしき中年男が、顔面蒼白で怒鳴る。
「穴の大きさは!?」
「拳より一回り大きいッ!!」
船員たちの動きは完全に混乱していた。
(……防水操練のない時代なのか?
マジでヤベー……日本なら水産高校の生徒でも普通にやるぞ)
内心でブツブツぼやきながらも、
カイトの表情は終始“海の紳士”そのもの。
荒天を前にしても微動だにしない、渋く落ち着いた“エエ顔”だった。
その顔のまま、カイトは船長へ静かに声をかける。
「船長。
――太い棒を三人で叩き込めば止水できます。
隙間は細い棒を何十本も使って埋める。
最後に見張りを二名置いてください。
指示は、必ずあなたから。」
船長の眼に覚悟が宿る。
「よし! 三人は太い棒を持て!
他の者は細い棒と布を抱えろ!
下甲板へ急げ!!」
「「アイ・サー!!」」
カイトは濡れた階段を駆け降りる。
膝まで海水が溜まり、
穴からドボドボッと海水が噴き上がっている。
(……穴は拳大、位置も浅い。まだ戦える)
「棒を当てろ! ここだ!」
「三人で押し込むぞ! せーの!」
バシュッッ!!
太い棒が穴に深く叩き込まれ、浸水が弱まる。
「まだ漏れてるぞ!!」
「細い棒を全部詰めろ! 隙間を潰せ!!」
船員総出で細い棒を押し込み、布で隙間を埋め、
応急止水が完成した。
ドドド…… → チョロ…… → ポタ……
「止まった!! 本当に止まった!!」
船長がすぐに叫ぶ。
「全員バケツだ!! 海水を全部外へ出せ!!」
「「アイ・サー!!」」
バケツリレーが始まり、
船底の水が次々と吐き出されていく。
その様子を見ながら、カイトは内心でまたぼやいた。
(いやほんと、水産高校の子でももっと上手いぞ……)
だが、表情は終始落ち着き払った
“海の紳士の顔”のまま。
船長が荒い息を整えつつ、深く頭を下げる。
「……助かった。本当に助かった。
お前がいなければ……沈んでいた。」
カイトは静かに首を振る。
「船長の判断が早かったおかげです。
――絶対に、みんなで生きて帰りましょう。」
そして柔らかく付け加える。
「希望を絶やさないことは……
海では、いちばんの基本です。」
荒れ狂う外洋の中で、
その言葉だけが静かに船員たちの心へ灯をともした。
「……帰れるのか」
「いや……帰るんだ」
「絶対に帰る……!」
恐怖の底に沈んでいた空気が、
小さな火のように明るさを取り戻す。
(……この船を、陸まで持たせる)
カイトは静かにそう決意した。
異世界での海の戦いは、
ここから始まる。




