「異端憲兵」
暗闇に映える一筋の朱。
白い肌に落ちる--
さながら新雪に落ちる牡丹の花弁。
黒い紋付きを着た男は暗い愉悦に引きつった笑いを浮かべる。
時は大正。
所は帝都。
西洋文化を貪欲に取り込む日の本の魔都。
今宵の夜もまた、血塗られた惨劇が。
男は、寒さに震えていた。
桜の花舞う季節とは言え、未だ夜は冷える。
瓦斯灯の照らす公園は夢幻のよう。
はらりはらりと積み重なる桜花は、雪を思わせた。
自身の想像に尚更身震いを覚え、襟をかき寄せ体を縮こまらせる。
桜の樹の下には死体が埋まっている。
そう言ったのは何処の文学人だったか。
あながち嘘でも無いと男は知っていた。
そう、ここ上野の地では。
幕末の戦で散った者達がこの地下には眠っている。
目眩を覚え、ふらりと足を泳がせれば、桜花の中に足が沈むかのような錯覚へ陥る。
自嘲の笑みを浮かべた男はゆっくりと、桜の海を歩く。
その足は何処へ向かうものか。
程して、道の中ほど。
一人の少女が道を歩いていた。
西洋式の水兵じみた、セーラーといったか、学生服。
斯様な夜に一人歩くとは何事か。
彼女はぼんやりと、桜を眺めていたのだ。
「もし」
男は声を掛ける。
少女は振り返る。
長い髪を翻らせて。
白い肌。
「何か御用でしょうか」
育ちの良さを伺わせる、はっきりとした口調。
男は少し眩しそうに目を細めた。
「斯様な時間にご婦人がお一人では危うくはございませんか」
男のその言葉に少女は答えず、再び桜を見上げた。
沈黙がしばし。
桜の落ちるおとのみが、しばし。
「彰義隊」
「は」
少女はぽつりと言った。
それは幕末、上野の地で散った旧幕軍の英傑達の名。
「私の祖父が、彰義隊の者。だったのです」
士族の娘。
彰義隊の末裔。
「御祖父様の供養というわけで」
男は言って、桜を見上げる。
艶めいたそれは妖しげに揺れた。
「ええ」
と少女は頷き、しかし首を傾げる。
「いえ、どうなのでしょうね」
ようやく年相応にはにかんだ。
「私は祖父に合った訳では有りませんので」
知りもせぬ人間に話した事を、今更ながらに恥じるかのように少女は顔を伏せた。
「自分も」
男は口を開く。
「彰義隊について調べていまして」
少女は、はっと顔を上げる。
「学者様かなにかで?」
「いやいや、只の趣味にございます」
しかし、と桜の花弁を一片握りしめ、男は言う。
「彰義隊の方はさぞ無念でありましたでしょう」
賊軍等と謗られ。
桜の下で安らかなる眠りなぞ望めまい。
「だから」
男の言葉に首を傾げる少女。
「大日本帝国などという幻想を打ち破るのに、誂え向きだ」
今までの口調とは打って変わった陰鬱な声。
男の異常に少女が気付くが、もう遅い。
男の手刀が少女の細首に吸い込まれ、一瞬にて、意識を刈り取った。
「はは、ははははは」
壊れたように笑う男。
「かようにも贄に相応しい者が手に入るとは」
男は丁寧な手つきで少女を地面へと寝かせる。
そして、懐から取り出すは、短刀。
幾人もの命を奪ったかのように、濤乱に乱れた刃紋には脂が浮く。
今正に、短刀を振り上げ、降ろさんやとした所であった。
夜を裂く金色が、男の手を穿った。
取り落とされる短刀。
甲高い音が夜の公園に鳴り響く。
「何奴!?」
男の問いに答えるかのように、夜陰からまろび出たのは帝国陸軍服。
外套を羽織り、深く被った軍帽にて、特徴を伺う事は出来ない。
さながら、軍服が一人歩きしているかのよう。
「邪魔をすらば……」
切る。と男は再度短刀を握る。
腕に自信があるのだろう。
現実、短刀を握る右手を前に、左手を帯に当てた構えは堂々としたものだった。
軍服は、それに対し、外套を後ろに流し応える。
前の開いた外套から見える腕には腕章。
映える、憲兵の文字。
手を添えた左腰の鞘は、本来のサーベルに非ず、刀。
鞘から思われる長さは三尺に届かん程の長刀。
右手は柄に添えられ、握りはしない。
居合を遣うのだ。
男は考える。
待ちの短刀に対し、居合は苦手とする一つ。
初太刀をかわせばあるいは。
軍服は一迅の風となり、駆ける。
男の考えは、無意味な物であった。
一定しないながらも疾走するその歩方が読めなかったのである。
銀光一閃。
横一文字に切り払われた刀は狙い過たず、男の右腕を裂いた。
腱が断たれては刀は振るえない。
唖然とする男に、無慈悲にも、留めの一撃が加えられる。
上段に振り上げた刀の、唐竹割り。
軍服は、直刃の美しい刀を血振りし納めた。
帽子に手を当て、僅かに持ち上げる。
まるで外来人のような白い肌。
青い瞳。
軍人にしては長すぎる髪。
彼は少女を抱きかかえ、その場をただ後にする。
残されたのは物言わぬ骸。
夜尚艶やぐ桜だけ。
彼は帝都に巣くう異端を刈る者。
帝都を守護する彼もまた異端。
故にこう呼ばれる。
異端憲兵。と。