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陸海軍協力な世界

未知の成層圏

作者: 仲村千夏

 ──これは空を越え、限界を越えた人々の記録である。


 


 雲は、下にあった。

 エンジンの唸りが機体を震わせ、操縦席の向こうに広がる空は、限りなく透明で、限りなく遠い。


 成層圏。人類がようやくその存在を知ったばかりの、青さすら薄れる世界。

 そこへ今、ひとつの機影が浮かんでいた。帝国航空技術研究所の《飛翔試験機・壱号》。

 それは、限られた者にしか知らされぬ“国家機密”であり、“空の頂き”に挑む先兵であった。


 


 操縦桿を握る伊佐山陸は、目の前の計器を睨みながら、スロットルをじわりと押し上げた。

 双発の試作エンジンは悲鳴のような唸り声をあげ、機体がさらに上昇を始める。


「……気圧、五五ミリバー。酸素濃度、極限に近し」


 後方キャビンで観測を行っていた結城伍郎が、凍りついた声で報告を入れる。

 彼の手は震え、指先はすでにかじかんでいた。分厚い手袋と皮の上着では、この世界に十分とは言えない。


 


「もう少しだ。あと千メートル……いや、八百でいい」


 伊佐山はつぶやいた。地上二万メートル。軍の定めた目標高度。

 それは、国家の威信をかけた数字であると同時に、航空技術の限界線を意味していた。


 


 地上では、まだ飛行機の航続距離は千キロに届くかどうか。高度はせいぜい一万メートル。

 だがこの機体には、それらをすべて超える設計が施されていた。軽量合金と特殊な空力設計、そして密閉された簡易加圧キャビン。


 この日のために、五年。

 誰にも語れぬ歳月を、伊佐山と結城は研究所で過ごしてきた。


 


「伍郎、記録は取れているか?」

「……ばっちりだ、兄貴」


 かすかに笑う結城に、伊佐山も口元を緩めた。

 彼らは本当の兄弟ではない。だが、伊佐山が前線で撃墜されそうになったとき、機上から発信された無線信号を拾って助けたのが、当時気象観測員だった結城だった。


 以来、二人は運命のように行動を共にしてきた。

 “成層圏”という未知の高みを目指す、その夢のために。


 


「……異常気流、微小振動あり。だが許容範囲内」

「視界、良好……! 空が、青を失っていく……」


 結城の声には、恐怖と同時に、畏敬と歓喜が混ざっていた。

 眼下には、大気の層が雲のようにたなびき、彼方に地球の丸みが見えた気がした。


「これが……成層圏か」


 伊佐山の声が、酸素マスク越しにかすれた。

 大気圏の上層。宇宙の入り口。

 気温はマイナス七十度、気圧は地上の一〇分の一。人間が生きるにはあまりに過酷な環境。


 だが、ここに来たことには意味がある。

 国のため、名誉のため――否。彼らはそれだけで動いていない。


 


「伊佐山、お前はどうして……ここまで来た?」

 結城が、唐突に聞いた。


「空が好きだった。ただ、それだけだ」

「戦争じゃなくて?」

「戦争のためなら、もう空に乗らない。……だが、空が呼ぶなら、何度でも」


 答えながら、伊佐山はかすかに目を細めた。

 大陸の空で見た火柱。爆風に吹き飛ばされた少年兵。――あれは、空じゃない。地獄だ。


 彼が本当に目指していた空は、今日、ようやくここにある。


 


 その瞬間、警告灯が赤く光った。


「エンジン……第二主機、出力低下!」

「混合比か!? いや、空気密度が……臨界を下回った!」


 機体が震える。わずかに傾いた機軸を立て直しながら、伊佐山は急速降下に備えるスイッチへ手を伸ばした。


「伊佐山!」

「……いい。まだ行ける」


 今、降りれば死なずに済む。だが、それでは夢が終わる。


 彼らが目指した“空のてっぺん”は、あとわずか、計器で言えばわずか200メートル先。

 命の綱が切れるか、歴史に刻まれるか。残された燃料と酸素は、どちらか一方を許すだけ。


 


「この記録を……必ず持ち帰れ」

「何を言って……お前が降りなきゃ、意味がねぇだろ!」


 結城が叫んだ。だが伊佐山は無言で高度計を見つめる。

 二〇〇〇〇。目標高度。――達した。


「撮れ」

「……ああ、撮るとも! 一生分だ!」


 結城はキャビンの観測窓から、地球の曲線を一枚のフィルムに焼きつけた。

 空の青さが消え、黒に近づいていくあの空間。それは、まさに宇宙への入り口だった。


 


 その直後、第二エンジンが完全停止。

 降下。制御された落下を開始。速度を殺さねば、墜落は免れない。


 伊佐山は冷静に姿勢を制御しつつ、結城に叫ぶ。


「地上へ伝えろ! “成層圏に到達した”と!」

「自分で言えよ! 生きて帰るぞ……! 伊佐山ッ!」


 


 機体は気流に乗って滑空を始める。地球の重力が、ふたりを再び地上へと引き戻していた。

 もはや、彼らにできるのはただ一つ――この記録と命を持ち帰ることだけだ。


 


 


 それから、数時間後。

 満身創痍の《飛翔試験機・壱号》は、研究所南東の野に不時着した。

 機体は半壊していたが、記録フィルムは無事。そして二人も、生きていた。


 


 結城は後に語ったという。


「俺たちは勝ったんだ。空の、重力の、常識の、全部に。

だが一番大きかったのは、俺たち自身の“恐怖”ってやつだったかもな」


 この飛行は、戦争に用いられることなく、極秘裏に記録された。

 だがこの物語は、誰よりも高く空を飛んだ、名もなきふたりの人間の記録として、

 後に密かに語り継がれることになる――。

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