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ラウンド3:手を汚す選択・歩道橋のシナリオ

あすか:(少し神妙な面持ちで)「さて、功利主義と義務論、そして理論と現実の狭間にある感情について議論が深まりました。ここで、皆さんにさらに厳しい問いを投げかけたいと思います。」


(あすかがクロノスを操作するとモニターの映像が切り替わる。暴走するトロッコが迫る線路を見下ろす歩道橋。その上には、痩せた人物(=あなた)と、トロッコを止められるほど体が大きく、体重のありそうな人物が立っている)


あすか:「状況は似ていますが、少し異なります。あなたは歩道橋の上にいます。眼下には、5人の作業員に向かって暴走するトロッコが迫っています。あなたの隣には、偶然にも、非常に体の大きな人物がいます。もし、あなたがこの人物を線路上に突き落とせば、その人の犠牲によってトロッコは停止し、5人の作業員は助かります。しかし、突き落とされた人は確実に亡くなります。あなたには、その人物を突き落とすことができますか?…ベンサムさん、いかがでしょう?」


ベンサム:(モニターをじっと見つめ、わずかに眉間にしわを寄せる)「…むぅ。…純粋な功利計算に従えば、結果はレバーのシナリオと同じです。5人の生存(5単位の幸福)は、1人の生存(1単位の幸福)に勝る。したがって、論理的には、突き落とすべき、ということになります。…しかし…」


あすか:「しかし?」


ベンサム:「…しかし、このシナリオでは、行為の性質が異なりますな。(少し言葉を選ぶように)レバーを引くという間接的な行為に対し、これは直接的に、特定の人間の生命を奪う行為となる。このような行為が社会に与える影響…つまり、人々が『いつ誰かに突き落とされるか分からない』という恐怖や不信感を抱くことによる幸福の減少も、計算に入れねばなるまい。その副次的効果を考慮すると、単純に『突き落とすべき』と断言するのは…難しいかもしれませんな。」(自身の理論の適用に、わずかな揺らぎを見せる)


あすか:「功利計算の結果は同じでも、行為の性質や社会への影響を考慮すると、判断が揺らぐ可能性がある、と。…カント先生はいかがですか?」


カント:(強い嫌悪感を露わにし、断固とした口調で)「言語道断!これは、もはや議論の余地すらありません!断じて否!人間を、まるで線路上の障害物を除去するかのように、物として扱い、突き落とすなど!これは明白な殺人であり、人間の尊厳に対する最も醜悪な冒涜です!レバーの問題とは次元が違う!この人物を、5人を救うための単なる『道具』『手段』として利用することは、いかなる理由があろうとも、絶対に許されません!」(怒りすら滲ませている)


あすか:「レバー問題以上に、明確に否定されるのですね。」


カント:「当然です!これこそ、人間性を手段としてのみ扱う、最も唾棄すべき行為の典型例だからです!」


あすか:「マキャヴェッリさん、カント先生は激しく否定されましたが。」


マキャヴェッリ:(カントの剣幕にも動じず、冷ややかに)「カント先生の純粋さには敬服するが、それで国が守れるかな?(鼻で笑う)必要とあらば、やらねばなるまい。突き落とすことが、より大きな損害を防ぐための唯一の手段であるならば、指導者は躊躇すべきではない。もちろん、後で上手く処理できるかなど、実行に伴うリスクも計算に入れる必要はあるがな。感傷や道徳的な躊躇は、決断を鈍らせ、結果としてより多くのものを失うことになりかねん。」


あすか:「目的達成のためなら、非情な手段も厭わない、と。」


マキャヴェッリ:「それが現実というものだ。綺麗事だけでは、何も成し遂げられん。」


あすか:「では、リンカーン大統領、あなたはいかがですか?」


リンカーン:(深く、重いため息をつき、顔をしかめる)「…できません。(はっきりと)私には、できません。たとえ、その結果5人の命が失われるとしても…私のこの手で、無実の人を、奈落へ突き落とすことなど…。(強い嫌悪感を示す)それは、私の信じる人間の尊厳、そして神の前の平等という理念に、根本から反します。レバーの問題では、まだ選択の余地と苦悩がありましたが、これは…これは、一線を越えています。」


あすか:「リンカーン大統領も、カント先生と同じく、明確に拒否されるのですね。ベンサムさんも、レバー問題の時とは少し反応が異なりました。多くの方が、この歩道橋のシナリオでは『突き落とさない』と答える傾向にあると言われています。なぜ、結果が同じであるにも関わらず、このように判断が変わるのでしょうか?」


カント:「それは、我々が理性によって、行為そのものの道徳的な質を直観的に理解しているからです!結果がどうであれ、人間を物のように扱い、直接的に危害を加える行為は、本質的に悪であると、我々の道徳的理性が告げているのです!」


ベンサム:「いや、カント先生、それは『直観』という名の非合理的な感情に過ぎません。もちろん、その感情が広く共有されているならば、先ほど述べたように、社会全体の幸福計算において考慮すべき要素とはなりますが、それ自体が道徳法則となるわけではない。我々は感情ではなく、理性的な計算によって判断すべきです。」


リンカーン:「しかしベンサムさん、その『感情』…あるいは『良心』と呼ぶべきものは、人間にとって、そして社会にとって、非常に重要なものではないでしょうか?たとえ非合理的であったとしても、人を直接傷つけたくないという気持ち、他者の痛みに共感する心がなければ、社会はあまりに冷たく、殺伐としたものになってしまう。」


マキャヴェッリ:「(リンカーンに向かって)大統領、その『良心』とやらが、時に国家を滅ぼすこともあるのだぞ。非情な決断を下せねば、敵に食い物にされるだけだ。指導者は、民衆の感傷に流されてはならん。」


あすか:「行為の『直接性』、人間を『手段』として扱うことへの抵抗感、そして『直観』や『良心』と、理論的な『計算』や『義務』との間の緊張関係…。この歩道橋のシナリオは、私たちの倫理観の複雑な側面を浮き彫りにするようです。さて、これまでは思考実験でしたが、次のラウンドでは、皆さんが実際に生きた『現実世界』での決断について、さらに踏み込んでお話を伺いたいと思います。」

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― 新着の感想 ―
 今回の歩道橋のケース。  良心の呵責に悩むのが嫌でなおかつ功利主義を貫くのならば犠牲者と共に飛び降りれば済む話ですね。  因みに私ならば事故は事故として傍観者に徹します。  自分に無関係な命の選択が…
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